預言者の系譜
2  エリヤ(2)
あなたの信仰は?

T列王記 17:8−24
  マタイ 15:21−28
T 福音の種が蒔かれて

 預言者エリヤの2回目ですが、先週は17:1−7から、彼のイスラエルの歴史舞台登場を見てきました。彼はアハブ王に、「私の言葉がないと、2〜3年の間は雨が降らない」と飢饉を予告しますが、彼自身、その飢饉を避けるため、「ケリテ川のほとりに行って身を隠せ。カラスがあなたを養う」と告げられ、ヨルダン川の東の小さな流れのほとりに身を隠します。飢饉を彼の故とする、王の手を逃れてのことだったのかも知れません。その辺りはエリヤ出身のテシュベ地方で、彼には住み慣れた土地だったのでしょう。1年くらいと思われますが、ケリテ川の水とカラスが運んだパンと肉に養われた期間は、彼にとって、第一の信仰体験でした。

 「しばらくするとその川が枯れた。雨が降らなかったからである」とあり、もう一度神さまのことばがあります。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」(8−9) エリヤのもうひとつの信仰体験が始まります。8−16と17−24の二つの出来事ですが、シドンはイスラエルの北に隣接した、ツロと共に有名な地中海に面するフェニキヤの古い町で(現在はレバノンの小都市)、侵攻して来たイスラエルに屈服しなかった民族の誇りが残るところでした。そんな町だったからでしょうか。アハブはフェニキヤの王女イゼベルと政略結婚をしています。そんなシドンに行けと言われたのです。この記事は、シドンのやもめ女がエリヤのしたことを語り、名の知れぬ預言者が記録して残したものを、列王記記者が編纂したものと思われますが、異邦の地にもヤーヴェ信仰の種が蒔かれ、その源流に預言者エリヤが深く関わったとする記事なのでしょう。そして、これから始まるアハブ、イゼベルとエリヤとの対決は、あくまでもそのヤーヴェ信仰を中心とするものであると、列王記記者からのメッセージではないかと思うのです。その信仰を聞いていきたいと思います。


U 信仰を神さまに差し出して

 ツァレファテの町に着いたエリヤは、その町の門で、服装からひと目でやもめと分かる一人の女を見かけます。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」 その絶妙なタイミングに、更に二番目の矢が放たれます。「一口のパンも持って来てください」 外国人の見知らぬ人であっても、一杯の水だけならと、彼女は素直に水を汲みに行きかけます。しかし、それが一切れでもパンとなったら……、彼女は今、残った最後の粉と油でパンを作り、それを食べて息子と死のうとしていたのです。ここで生まれ育ち、これまでにも何回も町の人たちに助けてられたことでしょう。しかし、何年も続く飢饉のために誰もが食べることに必死で、彼女を振り向く余裕がなかったのです。ただパンのためなら、幼い子どもと二人、何としてでも食べることは出来た。幼い子どもを抱えた母親の強さは並大抵ではないのですから。しかし、この時の彼女には、誰からも振り向かれない深い孤独があったのではと思うのです。彼女の返事から、疲れきった辛く悲しい思いが伝わって来るようです。

 彼女はこう言いました。「あなたの神、主は生きています」 これは、イスラエルの神さまヤーヴェを指しますが、毛衣を着て皮の帯を締めたエリヤを、イスラエルの預言者と見たのでしょう。「あなたはイスラエルの預言者でしょう。どんなことでも見抜くと言われた預言者が、どうして私の悲しみを無視なさるのですか。それともあなたは、こんな私たちに、それでも生きろとおっしゃるのですか。私たちが失った希望を取り戻すことが出来るとでも? あなたの神さまは希望のない者にも希望を与えてくださるお方なのですか」 しかし、彼女の訴えは聞かれません。「まず私に小さなパンを作って持ってきなさい。それからあなたとあなたの子どものために作りなさい」 それは、彼女に絶対の服従を要求するものでした。そして神さまからのメッセージが語られます。「イスラエルの神、主がこう仰せられる。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない』」

 彼女は信じました。わずかに残った粉と油をエリヤに、否、神さまに差し出したのです。しかし、その信仰は、うつむき加減の極めて受け身的なものに感じられてなりません。そしてそれは、現代、私たちが抱えている信仰の、大きな部分を占める問題ではないかと思うのです。ここで大切なのは、神さまのことばをもっと真正面から見つめる姿勢ではないかと思うのです。


V あなたの信仰は?

 もう一つの不思議が記録されています。「息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った」 (17)と始まります。彼女は、「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか」 (18)と訴えます。もちろん、エリヤの来たことが息子の死を引き起こしたと言っているのではありません。そうではなく、愛する者の死を神さまに訴えたのです。何故、今、死ななければならないのか、あの時、神さまは私たちを生かしてくださったではないか。神さまからの釈明が聞きたい。彼女は神さまと争う覚悟でした。ここで罪とは、彼女のもともとの問題点を言ったのかも知れませんが、今ここで神さまと争うことが、何よりも「罪」であると理解したのでしょう。この時点で、彼女は息子が還って来るとは思っていなかった。息子を返せと叫んではいないのです。しかし、彼女は息子の死を納得出来なかった。罪人の私だからか、それなら、私は母親である。「どうして私を身代わりにしなかったのか」 孤独で死のうとしていた彼女が、「パンを持って来なさい」と言われ、受け身ではあっても神さまを信じました。その彼女が、今、断固顔を上げて神さまを見つめるのです。

 エリヤは3回祈りました。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください」(21) そして、「主はエリヤの願いを聞かれたので、その子は生き返った」とあり、彼女の信仰告白とも言える言葉が記されています。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」 預言者がこんなにも神さまを示す存在であることに、襟を正される思いですが、彼女がこれほど深いところで神さまとの関わりを持ったことは、フェニキヤの王女イゼベルがアハブと結婚し、異教の神礼拝をイスラエルに持ち込んだことを思うと、実に暗示的なものを感じます。或る人が<これはモーセとヨシュア以来の奇跡であるが、イスラエルが再び岐路に立たされたことを示すもの>と洞察していますが、まさにその通りでしょう。預言者エリヤの登場は、偶像礼拝にのめり込んでいくイスラエルに、ご自分が生きて働くことを示そうとする、神さまご自身の介入のしるしではなかったかと思うのです。

 後にこの地方で、「主よ。私をあわれんで、娘を直してください」と願ったカナンの女とイエスさまの対話を思い出します。「わたしはイスラエルに遣わされたのです。子どもたちのパンを取り上げて小犬にやるのは良くない」、「主よ。その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちたパンくずはいただきます」、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどうりになるように」(マタイ15:21−28) 彼女たちの信仰の深さと高さ、受け身ではない信仰、エリヤやイエスさまの前で、彼女たちの顔は輝いていたのでしょう。それに比べて、私たちは、みことばを聞きながら、どのような信仰を育てようとしているのでしょうか。イエスさまを信じる信仰を、この女性たちのように、深く高いものに練り上げていきたいと願います。