預言者の系譜
19  アモス(1)
今、聞くべきことは

アモス 2:6:16
 ロマ 2:6−11
T 預言者として召し出されて

 今朝から預言者の系譜3人目、アモスに入ります。彼のことはこのアモス書からしか分かりませんが、この書の内的証拠から、人物・年代・目的など、ほぼ確定していると見て良いようです。この預言書のメッセージを少しでもよく理解して頂くために、まず、手短に背景をお話し致しましょう。

 1:1に「テコアの牧者のひとりであったアモス」とあります。テコアはエルサレムの南方約18qのレハベアム王が国防のために要塞をめぐらしたことで知られる町です。そこで「牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた」(7:14) アモスが預言者として召し出され、故郷を離れて北王国に移り住み、おもに北王国に関するメッセージを伝えます。牧羊者であり農業も営んでいたと言われる彼は、労働をする者たちの管理者だったようで、かなり知的水準の高い人物だったと思われます。南ユダ王国の住民でしたが、神殿所属の預言者集団に属してはおらず、突然、神さまから直接召し出されたようです。1:1に「これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の2年前に、イスラエルについて彼が見たものである」とあります。ヤロブアム2世の頃、この地震のことは考古学の発掘調査でも明らかになっていますが、BC760年、エリシャから50年ほど経った頃のことと考えられます。丁度その頃、アッシリヤは無力な王アッシュール・ダーン3世のもと最も弱体化した頃で、その状況に助けられてウジヤもヤロブアム2世もそれぞれの王国の拡張と繁栄を勝ち取っていました。彼らの繁栄の時代は約40年続きます。

 1:2に「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される」とありますが、このような背景の中で預言者として召し出されたアモスは、北王国だけではなく、全イスラエルを視野に入れた預言活動を行なっていたようです。それは、イスラエルの不信を咎め、悔い改めなければ北王国も南王国もともに断罪するという宣言ですが、野から出た者らしく、具体的な彼らの罪が浮き彫りにされていて、アモスの預言者としての本領を感じます。


U 私たちへの宣告として

 今朝は2:6−16からですが、「イスラエルの犯した3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」(6)とあります。1−2章にあるアラム、ガザ、ツロ、エドム、アモン、モアブ、ユダと7つの国への言い方と同じものですが、「3つの……4つの……」とは如何にも強調した言い方です。そして、そのクライマックスに北王国の問題点が掲げられるのです。他の7つの国の断罪の原因が、軍事同盟の裏切りや戦争における不義などであるのに対し、北王国への宣告は、神さまの選びの民としての契約違反です。具体的な4つの罪が暴かれます。

 イスラエル断罪の第一の罪は、「彼らは金のために正しい者を売り、1足のくつのために貧しい者を売ったからだ」(6)とあります。「正しい者」とあり、奴隷に売られる根拠は、ただ貧しいということだけでした。イスラエルは本来、神さまの選びの民であり、すべての人は神さまの一つ家族であって平等という意識から、「自分を愛するように隣人を愛せよ」(レビ記19:18)と、愛の共同体を形造ることで民族国家を目指し、一種のユートピアだったのです。ところが、カナンに居住する他民族と同じ価値観を求めたために、金銭への執着が兄弟愛までもなくし、神さまを見失ってしまったと告発されるのです。これはイスラエルだけではなく、現代の私たちも心に刻んでおかなければならないことでしょう。

 第二に「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ」(7a)と言われます。イザヤ書に同じ言い方が「彼らは寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ」(10:2)あり、貧しい者たちが不正な裁判の犠牲になっていることが語られているようです。イエスさまのたとえ話しにも出て来るように(ルカ18:1−8)、不正な裁判官はイスラエルで当たり前のように存在していたのです。しかし、彼らの本当の裁判官は神さまであって、そのお方に基準を置くならば、公正でなければならない筈でした。これは第一の罪よりも更に重いと告発されています。神さまの公正をないがしろにしたからです。


V 今、聞くべきことは

 第三は「父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している」(7)です。父と子が……という性的不道徳だけではない、カナンの諸宗教には神殿売春や男娼といった忌まわしい風習があって、イスラエルにもそういったものが入っていました。カナン文化摂取という名目で、神さまの聖を汚し……、第三の罪は、神さまの聖なることを現わす民として選ばれたことを、彼ら自らが放棄したと言うのです。聖とは、祭司の国として、他民族とは区別されていることを意味するのですが、それを放棄したことで、一歩も二歩も重大な罪と告発されているのです。

 第四に、「彼らは、すべての祭壇のそばで、質にとった着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる」(8)と非難されます。出エジプト22:26に「隣人の着る物を質にとるようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない」とありますが、それは彼らの夜着として欠かせないものだからです。彼ら(多分、祭司たち)はそれを自分の夜着として、しかも祭壇のそばで、使用するのです。ぶどう酒も同様の不正でしょう。神殿で神さまに仕える者たちが不正を働いたということだけではない。神殿という彼らの中心が、欲望のために機能を失って、そこにはもう選民としての意識も存在価値もないのです。彼らの断罪は避けることはできないと、神さまの宣告と聞いていいでしょう。こうしてだんだんと、4つの罪が神さまに関わる重大なものになっていくことで、私たちの価値観(何を最も大切にするかという)にも、修正を加える必要を教えられます。

 しかし、それでも彼らに思い出して欲しいことがありました。神さまご自身のことです。「エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ」(9)と、イスラエルのカナン進出時に敵対したカナン人のことが語られます。10節はエジプトから奴隷だったイスラエルを導き出したこと、11節は預言者とナジル人がイスラエルのために立てられたことを指します。預言者がイスラエルの選民の誇りであったとこれまでも度々触れましたが、ナジル人も神さまに聖別された人です。それほど神さまはイスラエルに心を砕いてくださったのです。彼らがそういったことをわずかでも思い出し、悔い改めるなら、彼らへの断罪の宣言は撤回されたでしょう。エリヤもエリシャもそのために働き、預言者たちはその神さまの憐れみの使者として立てられて来たのです。

 13節以下に語られる裁きはパスしたいですね。神さまの深い悲しみを感じます。今、これを私たちへのメッセージと聞いていくことは飛躍でしょうか。沈黙しているかに見えた神さまの手が、働き始めたと感じるこの頃です。聞いた罪の一つ一つは私たちにも当てはまり、他人事と聞いたり、反発することは出来ないでしょう。「神はひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります」(ロマ2:6)とあります。