預言者の系譜
14  エリシャ(8)
人間への優しさを込めて

U列王記 6:8−23
  ロマ書 5:6−9
T 混乱する現代日本に立たされて

 いろいろな記事が、時間的順序を無視し、種類を無視し、同じジャンルのものが飛び飛びになっていたりと、編集者の意図が良く分からないのですが、6章8節から13章のエリシャの死までの記事は、オムリ王朝からエフー王朝へと北王国の政変を挟んで、ほとんどエリシャの政治的関与が取り上げられています。これがエリヤの後継者として、預言者エリシャの本領なのでしょう。今まで多方面からこの預言者を見てきましたが、最後にいくつかの記事から彼の本領を探っていきたいと思います。今朝は、イスラエルに戦いを仕掛るアラムに預言者として介入するところで、一連の出来事が三つのブロックに分れていますので、それぞれのところから考えてみたいと思います。

 第一に、8−14節ですが、「アラムの王がイスラエルと戦っていたとき」(8)と始まり、アラムはシリヤ、王はベン・ハダテと考えて良いでしょう。後年エリシャとは仲良くなりますが、それは将軍ナアマン以降のことで、この時はまだ血気盛んな、北王国への敵意むき出しの王のようです。国力や文明はアラムが断然圧倒していますが、相当な距離を南下して来るのですから、遠征に体力を使い、どうしても圧倒的な勝利には結びつきません。そこで策をたて、「これこれのところに陣を敷こう」(8)と待ち伏せますが、味方には損害の少ない作戦だったのでしょう。そんな時、イスラエルには必ずと言っていいほどエリシャの警告がありました。『あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから』」(9) イスラエルの王(多分ヨラム)はエリシャのことばを信頼し、受け入れました。「彼が王に警告すると、王はそこを警戒した」とあります。収まらないのはアラム、何度戦略を練ってもことごとく失敗するので、自軍の中に裏切り者がいるのではと激怒します。この時点ではまだ、預言者エリシャの存在を知らなかったのかも知れません。しかし、「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られたことばまでもイスラエルの王に告げているのです」(12)と、家来が進言します。

 この家来が気づいていたかどうか分かりませんが、彼の言葉は、預言者の本質を的確に言い表していました。隠された事柄を、そこに存在する神さまのこととして受け止め、判断を見極めていく。特に混乱する時代にあって、その役割は大きいと言えましょう。ここに、カナンの宗教に侵され滅びに突き進んでいる北王国を、アラムの手に渡すことを惜しむ愛国者エリシャの姿が浮かんで来ます。現代日本という混乱に立たされている私たち、エリシャの姿勢に倣いたいものです。


U 大切なものを見る目を

 ところが激怒する王ハダテは、家来の進言を正しく受け止めることが出来ず、エリシャさえいなければ「勝利はわが手に収められる」と勘違いします。アラムの王ハダテが、ここに神さまの働きを気づかなかったのは、イスラエルの神さまへの姿勢によるのでしょう。イスラエルがもし、ヨシュアや士師たち、ダビデの時のように神さまに全き信頼を置いていたなら、隣接するアラムにも当然神さまのことが伝わっていたでしょう。そうなら、この神さまを侮るなどという無謀なことはしなかった。しかし、彼は夜のうちに軍隊を送り、エリシャがいるドタンの町を包囲します。ドタンは、ヨセフが兄たちからうとまれ、エジプトに売られた舞台になったサマリヤの山中で、夜陰にまぎれてのこととは言え、アラムの軍隊がそんなところまで入り込むことが出来たのは、よほど慎重に行軍したからでしょう。14節の「大軍」は、23節に「略奪隊」とあるように、少数精鋭部隊だったのでしょう。

 第二は15−19節ですが、ここであたふたしている召使いはゲハジでしょう。「ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らよりも多いのだから」エリシャが主に願うと、ゲハジの目に、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えました。何でも見ているようで、大切なものが見えていないゲハジとアラムと私たち……。アラムがエリシャに攻めた時、エリシャは「この民を打って、盲目にしてください」と祈りました。そして、<主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って盲目にされ>(18)と、そんな彼らをエリシャはサマリヤの町まで連れていきます。<エリシャのことばのとおり>、祈りがその通りに聞かれることを、私たちはもっともっと覚えなければなりません。盲目になったとは、パウロと同じように、目に覆いがかかったことなのでしょうか。彼らも王と同じように、見るべきものを見失っていたのでしょう。


V 人間への優しさを込めて

 もう一つ、第三ブロック20−23節からです。「彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。『主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください』」(20)見えるようになった兵士たちは、サマリヤの町の中心部に来ていたので仰天します。先導者がいても大変だったろうに、不自由な目でドタンからサマリヤまでおよそ15qの道のりを、よくも王の命令を遂行しようと歩いたと、彼らの精鋭ぶりが伝わって来ます。王のためにいのちを捨てようと、その時点で盲目になったのかも知れません。これはエリシャの中心主題の一つですが、王のためにいのちを捨てようとする彼ら、民のために王のいのちを犠牲にしようとする預言者の対比が見事に描かれていると思います。

 イスラエルの王と兵士たちが彼らを取り巻き、イスラエルの王は「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ」(21)と言いますが、エリシャは彼らのその悲壮な決意を見て、王を押しとどめます。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい」(22) この会話から、エリシャが王に対して相談役以上の存在であったと感じられます。王はエリシャのことばを受け入れ、盛大な宴げをもようし、無事彼らをアラムに帰しました。この記事の記録者は、「それからは、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった」(23)と証言しています。結果は王の宴げにあったのではなく、エリシャの優しい心遣いが彼らを打ったのでしょう。

 ここに、預言者エリシャの本領が浮かび上がってきます。一つは、イスラエルを助けたいとの思いです。カナンの宗教バアル崇拝に陥って、道徳的にも頽廃の一途を辿るイスラエルに、エリシャは一度も厳しいことばをぶつけてはいません。むしろ、そんなイスラエルが他国の手に陥ることを憂える預言者の姿が浮かんで来ます。もう一つ、アラムの人たちにまで優しく接しているエリシャの人間愛が、ここに証言されているようです。預言者とは、神さまのことばを伝えることを第一の使命としますが、それはロボットのように機械的なスピーカーの役割を果たすのではなく、預言者の人格の中で消化されたメッセージであると聞いて良いでしょう。エリヤは対決を強烈に打ち出した預言者であり、エリシャは優しさを大切にした預言者でした。それは神さまの優しさであり、その優しさがイエスさまの十字架に凝縮されているのです。