預言者の系譜
12  エリシャ(6)
神さまがなさることを

U列王記 5:1−14
  マルコ 15:27−28
T 神さまの預言者がいることを

 預言者エリシャが、らい病に侵されたアラムの将軍ナアマンを癒すところです。4章のシュネムの女の記事と同様に長い記事ですので、ここにも列王記編集者たちの特別のメッセージが込められたのだろうと思います。

 アラムとは今のシリヤで、イスラエル北方に位置し、昔も今もイスラエルとは敵対関係にあって戦争の絶えない間柄です。ナアマンはそれらの戦争で度々勝利を収めた名将でした。その将軍のために、シリヤ王自らイスラエルの王に「よろしく頼む」という手紙を書き、ナアマンはエリシャへの礼物に銀10タラント、金60000シケル、晴れ着10着とものすごい贈り物を用意しています。銀10タラントとは、当時、金より銀のほうが価値があったからですが、1タラント持っているだけでも大金持ちというほどの金額でした。信頼するナアマンのために、シリヤ王が持たせたものでしょう。

 ナアマンはこれまでにも、八方手を尽くしてあらゆる治療を試みたことでしょう。しかし効果はありませんでした。この物語は、イスラエルから捕虜として連れて来られた彼の妻に仕える一人の少女の言葉から始まります。彼女はナアマン夫妻に可愛いがられ、彼の病気を本気で心配していたのでしょう。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」(3) 万策尽きたナアマンは、イスラエルの預言者のことを聞いていたのかも知れません。少女の言葉に耳を傾け、王さまにイスラエルに行く許可を求めます。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう」(5) ところがその手紙には、預言者云々は記されていなかったようで、ナアマンが手紙を携えてイスラエルに到着すると、イスラエルの王は怒り嘆きます。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ」(7)しかし、王のとまどいを伝え聞いたエリシャが、「彼を私のところによこしてください。そうすれば、イスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と、ナアマンを自分のところに寄越すように言います。


U 神さまのことばが

 しかし、ナアマンがエリシャの家の入口に立ったとき、彼は会おうともせず、使いを送って言います。「ヨルダン川へ行って7たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(10) これを聞いてナアマンは怒ります。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルバラは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか」(11−12)<アマナやパルバラ>がよほどきれいな川だったのか、さもなければ彼は相当な愛国者であり、川の水自体が彼の病いを直してくれると勘違いしています。彼は、イスラエルの預言者を、シリヤにもいたであろう魔術師や呪術師と混同しています。古代社会でそのような存在は珍しくはなく、カルメル山でエリヤが対決したバアルの預言者もそれに近いものでした。ナアマンは、そのような者たちにも相当お金をつぎ込んでいたのでしょう。当時はそれが普通であり、「彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かして直してくれる」と思ったことを、見当はずれと責めることは出来ません。むしろ、神さまからのメッセージ、ことばをもって人を癒すイスラエルの預言者の存在こそ珍しいものでした。しかし、事実、預言者のことば、つまり神さまが彼を癒したのです。エリシャはシリヤの異邦人・ナアマンにそのことを知ってもらいたかった。だからエリシャは彼に会おうともせず、ことばだけを取り次いだのですが、ナアマンはそれに気づきません。

 怒って帰途に着くナアマンに家来たちがとりなします。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むつかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか」(13)さすが彼らが本気で仕える将軍です。彼はその言葉を受け入れ、Uターンしてヨルダン川に7たび身を浸します。すると彼のからだは元どおりになって幼子のからだのようにきよくなりました。ここでヨルダン川と言ったのは、ギルガルの預言者学校が手狭になり、ヨルダン川のほとりに移転していたからのようです。現在の聖書地図には、ヨルダン川近くのギルガルだけが記載されています。


V 神さまがなさることを

 先週も触れたことですが、編者たちは、エリシャが自分の名前を冠した書物を残さなかったために、精一杯彼の記録を集め、それらをここに載せて預言者エリシャの名前を不滅のものにしようとしました。その意味で、この記事もエリシャ賛歌と言えましょう。しかしここには、それ以上のメッセージが聞こえて来るようです。

 この出来事ではシリヤ、北イスラエル双方の王の名前が省かれていますが、8章でエリシャがダマスコに行ったことなどを考えると、シリヤの王ベン・ハダテとイスラエルの王ヨラム末年の時代だったと思われます。エリシャの預言者7−8年目の頃、多くの不思議を行なった時期でもあったようです。中でも、敵国シリヤの将軍の癒しということで、エリシャ賛歌の長い記事になったのでしょう。しかし、編集者たちはここにエリシャのことばしか登場させず、その実現のために、全く別のことを3つ、イスラエルの少女の言葉、シリヤ王の手紙、そして彼のしもべたちの言葉を記録します。いづれもとりなしのことばであり、つまりこの記事には、エリシャ賛美以上のメッセージが込められていると思うのです。

 編集者たちの第一のメッセージはエリシャ賛歌です。自分たちの国にはこんなにも偉大な人物がいた。第二に、その人は預言者であった。それは他の民族にはない、ヤーヴェのことばを取り次ぐという特殊な任務をもつ者でした。イスラエルに預言者がいることで彼らは、唯一の真の神・ヤーヴェの選びの民であるという誇りを持ち続けてきました。特に北王国はダビデ王朝から離脱し、一層、自分たちも神さまの選民であると示したかったのではと思われるのです。第三に、このナアマン物語の主役はエリシャでもナアマンでもなく、「彼を癒したわたしこそ、この出来事の中心である」と、神さまご自身の主張を感じるのです。

 この物語に、何気なしに加えられた3つのとりなし、イスラエルの少女とシリヤ王とナアマンのしもべたちのとりなし、その背後に、私たちの罪の赦しのために自らとりなしとなってくださったイエスさまが見えて来ます。新約聖書で、らい病の癒しはイエスさまを示すシンボルです。らい病がゲハジに移動したという記事(20−27)は、メシヤ信仰が膨れかかった時代に、かなり変形はしていますが、贖罪者を待望する信仰から書き加えられたもののように思えます。このナアマンの癒しの記事は、現代の私たちへのメッセージでもあります。イエスさまが私たちの罪を、身代わりに背負って十字架に死んでくださったことを、もう一度深く噛み締めたいと思います。「こうして、『彼は罪人たちのひとりに数えられた』と書いてある言葉が成就したのである」(マルコ15:28・口語訳。新改訳にはない。後世の加筆)とあります。私たちの救いのために、深い意図をもって神さまがなさることを、しっかり受け止めたいと願わされます。