預言者の系譜
11  エリシャ(5)
見つめるべきお方を

U列王記 4:8−37
  ロマ書 5:1−5
T 民衆の中の預言者

 エリシャを見ていますが、彼の記事は非常に多いのです。それは、列王記の編集者たちが、自分の名を冠した「エリシャ書」といったものを残さなかったエリシャのために、彼の記事を出来るだけたくさん集めたためと思われます。それだけ預言者として彼の存在が大きかったのでしょう。ただし、預言者エリシャを理解するために、そのすべてを見る必要はありません。今朝はエリシャ賛歌を飛ばし、編者たちが特別力を注いだと見られるシュネムの女のところから見ていきたいと思います。4:8−37ですが、非常に長く、ソース自体も詳しく、編者たちもそれなりの位置づけをしているのでしょう。ここにはシュネムの女にまつわる二つの出来事が取り扱われています。その中心メッセージを聞いていきたいと思います。

 「ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って食事をするようになった」(8)と始まります。シュネムはガリラヤ地方の南部に位置し、エスドラ平原にある肥沃な町だったようです。預言者学校があったギルガルからそれほど離れておらず、エリシャはその辺りを度々歩き回り、人々の暮らしに溶け込もうとしていたようです。彼女は夫に言っています。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません」(9) これを見ると、彼女はエリシャと前からの知り合いではなかったようで、エリシャがギルガルの預言者学校を統括して間もなくのことなのでしょう。彼女はエリシャのために屋上に「壁のある小さな部屋」を作り、休息の場所として提供します。エリシャとこの女性が親しくなってから、ギルガルの預言者たちも彼女の家に出入りするようになり、彼女の証言をもとに彼らがこの記事のソースを書き上げたように思うのです。つまりこの記事は、一般民衆とエリシャ、一般民衆と預言者たちとの間に、どのような関係が築かれていたのかを証言する代表例と言えるのではないでしょうか。ここから、預言者を通じて、ヤーヴェ信仰がどのように民衆に浸透していったのかを聞いてみたいのです。


U 彼女の絶望は

 彼女のところでエリシャは非常に歓待されています。少し経って彼は、その歓待に何か報いたいと考えました。「ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか」(13)と聞きます。ところが彼女は今のままで十分だと答えます。彼女は夫に愛されており、暮らし向きにも何の不自由もありませんでした。ただ、エリシャのしもべがこんな報告をしています。「彼女には子どもがなく、彼女の夫も年をとっています」(14) 夫に愛されていたのは彼女が若い妻だったからでしょうか。子どもがないことも、夫がかなり高齢で諦めていたのでしょう。また、夫には他の妻がいて、跡取りの子どもがいたとも考えられます。「私は、私の民の中でしあわせに暮らしております」という彼女の気持ちに偽りはなかったが、こんな事情も想像されるのです。そんな彼女の思いがエリシャに伝わったのでしょうか。エリシャはほほ笑みながら、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう」(16)と、彼女を祝福するのです。そして、その祝福は実現します。

 「王か、それとも将軍に何か話して欲しいことでもあるか」と心遣いを見せたエリシャでしたが、彼女の中に、何か隠されたものを感じたのでしょう。エリシャが感じ取ったもの、それは、自分の子どもを抱くことはないと諦めていた彼女の絶望ではなかったかと思うのです。アブラハムの妻サラ、ヤコブの妻レアとラケル、サムエルの母ハンナとその例に事欠きませんが、イスラエルの女たちにとって子どもがないことは、財産の相続分がないばかりか、神さまに祝福されていないという認識につながったようです。彼女の言葉から、信仰心の厚い女性だと感じますが、それだけに、神さまから祝福されてないということは耐えがたいことだったのでしょう。信仰の第一の喜びは、神さまに愛されていると感じる時ではないでしょうか。彼女はそれが根底から揺らいでいました。神さまの祝福を頂くことが出来ない、それが彼女の絶望だったと思うのです。

 エリシャは彼女を祝福しました。そして子どもが産まれます。しかし、列王記の編者は続けてもう一つの出来事に触れます。今かい間見た彼女の絶望が、更に膨れ上がる出来事です。しかしその中で、彼女は神さまに愛されていることを知るようになります。彼女がどのように祝福されていったかを聞いてみましょう。


V 見つめるべきお方を

 「その子が大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき」(18)と次の出来事が始まります。父の仕事場に行くくらいだから、少年と言っていい年齢になっていたのでしょう。父親から非常に可愛いがられていた様子も伝わって来ます。いつも通りに畑で元気に飛び回っていたが、とつぜん「頭が痛い」と訴えて倒れます。そして、それから数時間後に死んでしまうのです。

 母親は息子が死んだことを誰にも言わず、カルメル山のエリシャのところに駆けつけます。エリシャはギルガルの預言者集団と一緒にはいませんでした。神さまからの啓示を聞き逃すことのないようにと考えてのことでしょうか。カルメル山はエリヤがバアルの預言者たちと対決をした場所です。ろばを走らせて来る彼女を、遠くからいち早く見つけたエリシャの感覚の鋭さが、そのことを物語っているようです。「それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた」(27)とあります。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか」(28) 彼女に何が起きたのか、エリシャにはまだ何も知されていなかったが(27)、彼には彼女の痛みが十分伝わったのでしょう。彼はまず、しもべゲハジを彼女の家に遣わします。ゲハジは彼に言われた通り「子どもの顔の上にエリシャの杖を置く」が、子どもは起きあがらない。ゲハジのこの記事は、少年の死の確認だったのでしょうか。ゲハジを送り出してなお、エリシャのそばを離れようとはしない彼女の願いだったのかもしれません。エリシャも彼女の家に行きますが、途中、「子どもは目をさましませんでした」と報告を受けます。が、エリシャはおろか、彼女にも動揺さえ見られません。到着するとすぐ、エリシャは一人部屋の中に入り、戸を閉じて主に祈ります。「それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に……」(34)と。やがて身体が暖かくなり、子どもは息を吹き返すのですが、エリシャの奇妙な行動は「……7回くしゃみをして目を開いた」(35)とある表現と合わせて、その通りに行われた証言であることを暗示しています。列王記の編者たちは、ギルガルの預言者たちのこの記録を<事実である>と認めたのでしょう。「あなたの子どもを抱き上げなさい」彼女は彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをしました。彼女の絶望は今、神さまからこれほどまでの祝福を頂いて、希望と喜びに変わったのです。

 しかし、この記事は、シュネムの女の「絶望から希望へ」が主題ではありません。彼女の名前はついに一度も記されず、編集者たちは、ただ、このお方に聞き、このお方に希望を持って欲しいという願いとともに、これをあくまでエリシャを通して神さまがなさったことと証言しているのです。イスラエルはそのお方から頂く筈の希望を見失っていました。現代の私たちも、同じように希望のない時代を迎えています。見つめるべきお方を間違えないように。私たちには神さまの愛が注がれているのです。