預言者の系譜
10  エリシャ(4)
主のみことばに耳を

U列王記 3:1−27
  Tコリント 1:18
T 預言者エリシャの登場

 エリシャの4回目です。エリヤを見送ったエリシャはサマリヤ山中のギルガルに戻り、エリヤの後継者として預言者集団の訓練に当たり、あちこちに出掛けて預言者としての活動をしていたのでしょう。ギルガルには他から多くの預言者たちも集まり、預言者としてのエリシャの名前は知られるようになっていました。

 3〜4年経って、アハブの子ヨラムの時代に、エリシャの名前が再び登場してきます。「アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルにそむいた」(5)とあります。モアブはアブラハムの甥ロトの子孫で、イスラエルとは親戚関係にあります。イスラエルとはついたり離れたりでしたが、アハブの父オムリの時代には北王国の属国となり、それがアハブの死後、アハズヤ王の時に背くのです。死海の東側、トランス・ヨルダンと呼ばれる穀倉地帯で、属国だった何十年かに力を蓄えての反逆だったのでしょう。即位直後のヨラムは大いに恐れ、同盟国を求めてモアブに対抗しようとします。ヨラムはエドムの荒野を通って南方からモアブに奇襲をかけようとしますが、南下する途中、南王国ヨシャパテ、更に南のエドム王に声をかけました。ヨシャパテは以前、モアブとの戦いに勝利を収めたことがあり(U歴代誌20章)、ヨシャパテを加え、この戦いは楽勝と考えたのでしょう。

 しかし、その辺りは乾燥地帯の荒野で、たちまち水不足に陥りました。ヨラムは「主が、この3人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」(10)と絶望しますが、ヨシャパテは望みを捨てず、「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか」、「エリヤの手に水を注いだ(しもべの)エリシャがいます」(11)とあります。この時、エリシャはエドムの近くにいたのでしょう。3人はエリシャのところに行き、主のみこころを求めます。ところがエリシャは「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください」(13)と言います。ヨラムはまだ、アハブやイゼベルの植えたバアル崇拝を続けていました。エリシャは、イスラエルにはびこるバアル信仰を撲滅するために、エリヤの後継者として召し出されていたのです。


U 神さまを見つめて

 エリシャの冷たい返事に、ヨラムは主・ヤーヴェのことばを聞きたいと言い張ります。「いいえ、モアブの手にこの3人の王を呼び集めたのは主だからです」(新共同訳13節) そこでエリシャは「ヨシャパテのために」(14)と主の御心を求めます。

 エリヤの後継者として北王国の預言者集団の指導者に留まり、その民の信仰回復のために働こうと願っているエリシャが、何故、「ヨシャパテのために」と南王国に目を向けたのでしょう。一つには、「我がしもべ」とまで神さまに信頼されたダビデ王の家系である南王国に、イスラエルのヤーヴェ信仰の要として踏み止まって欲しかった。ヨラムは南ユダ王国ヨシャパテの手前もあり、預言者エリシャに会いに来たのですが、実はヨラムもエドム王もヤーヴェ信仰にはうとく、ヨシャパテもかつての信仰を失っていました。ヨシャパテはアサ王の息子であり、35才で王となり、25年間王位にあり、その大部分を「父アサの道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行なった」(U歴代誌20:32)とあります。しかし、歴代誌の記者はすぐ後に、「その後、ユダの王ヨシャパテは、悪事を行なったイスラエルの王アハジヤと同盟を結んだ」(同20:35)と非難します。そんなヨシャパテに、初めの誠実な信仰に立ち帰って欲しいと願ったのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、エリシャが見ていたのはやはりヨラムであって、あえてヨシャパテを引き合いに出した。つまり、それが預言者エリシャのメッセージだったということです。エリシャがヨラムを無視したのは、神さまがヨラムを無視したのであり、彼が神さまをないがしろにするから、神さまも彼を居ない者としたということなのでしょう。「神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや」と先週教えられた信仰の原理は、ここでも語られています。誰かが神さまに敵対するなら、神さまもその人に敵対されると、私たちも心に留めておかなくてはなりません。それは、神さまを見つめるなら、神さまも私たちを気に掛けてくださるということなのです。


V 主のみことばに耳を

 無視していると言いながら、エリシャはヨラムを見ていて、そのジレンマが現れていると思われる記事があります。

 「ヨシャパテのために」と理由をつけながら、エリシャは主の託宣を求めました。面白いことに、彼は立琴の奏者を呼んで、立琴がひき鳴らされる度に主の託宣を受けたという変わった方法を用いています。今、ヨラム、ヨシャパテ、エドム王の3人がエリシャの前に立っています。3人は主のことばを聞くためにやって来たと言いながら、実はかたくなまでの不信仰の心そのままであるとエリシャは見抜き、音楽という伴奏つきで預言のことばを語りますが、それは、はっきりした形での主の託宣を彼らに見せるためだったのでしょう。「この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ」、「風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水が溢れる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む」と彼が語った主の託宣は、原語で韻を踏んでおり、詩か歌のように見えます。確かにそれは主のことばでしたが、たぶんに芝居がかったもののようで、朝になって彼らはそのことば通り水を飲みます。彼らは渇いた谷に水が流れたという不思議を見て、神さまが勝利を与えてくださると思ったのでしょうか。しかしエリシャが願ったのは、事の成否に関わらず、彼らが主のことばに聞き、主への信仰を回復することでした。そしてそれは、現代の私たちにも言えることでしょう。

 この時、彼らはモアブを打ち破り、大勝利を収めます。果たしてそれは、彼らへの恵みだったのでしょうか。私にはそうは思われないのです。太陽が水面を照らして血のように真っ赤にみえたので、モアブが言う。「これは血だ。きっと王たちが切り合って同士打ちをしたにちがいない」(23) 北王国、南王国、エドムの同盟は、モアブの目から見ても不安定な、いつ反目が起きても不思議ではない一面を持っていました。そんな彼らに勝利をもたらしたのは明らかに神さまで、エリシャを通して語られた主のことばが実現したからであると、ここに列王記記者の証言が込められているように感じるのです。預言者の声を聞き、主のみことばに耳を傾けよ。それこそがエリシャのメッセージだったのです。同じ主のみことばを、「十字架のことばは、救いを受ける私たちには、神の力です」(Tコリント1:18)と、十字架に罪を赦してくださったイエスさまに聞いていきたいのです。