テサロニケ書 3:6−10
イザヤ書   56:4−8

 9 ともに生きる者と

                                                         
T テモテの報告を聞いて

 3:6−10です。パウロがテサロニケ教会にテモテを遣わしたのは、ユダヤ人たちの執拗な迫害の中でも、しっかりと信仰に立っているようにという励ましのためでした。優しいものの見方をするテモテは、彼らを励ますためにうってつけの伝道者だったのでしょう。しかし、そんな配慮をしながらもパウロは、テサロニケの教会がその苦難に耐えきれず、ばらばらになってしまったかも知れないという一抹の不安を感じていたようです。戻ってきたテモテは、テサロニケ教会の人たちについていくつもの朗報をもたらしてくれました。

 「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」(6・新共同訳) 新改訳では明確でありませんが、新共同訳に見られるテモテの報告は、@テサロニケ教会の人たちの信仰と愛について A彼らがパウロたちを好意をもって覚えていてくれたこと B彼らがパウロたちに会いたがっていること、と3つに整理されています。ところがここを読んでいきますと、特に彼らの信仰と愛について、意外なほど具体的記述がないのです。テモテの報告はもっと具体的だったと思うのですが、これまでにも何度も彼らの信仰や愛や希望が語られていましたので、ここでもう一度それを取り上げる必要を感じなかったのでしょうか。ここではそのテモテの報告をお題目のように並べていますが、きっと、パウロには何らかの意図があって、このように整理したのではないかと感じられるのです。今朝は、その意図の中に隠されたパウロのメッセージを聞いてみたいと思います。それは、テサロニケ教会の人たちばかりでなく、現代の私たちへのメッセージでもあると思うからです。


U 顔を合わせて

 実は、この3つの要点は、きっちりと独立した文章で並べられているのではなく、関係代名詞を用いた有機的なつながりのある1つの文章の中に組み込まれています。なぜこんな堅苦しいことを持ち出すのかと言いますと、パウロは、ここでは3つではなく、1つのことを覚えて欲しいと願っているからです。テモテは、彼らの信仰と愛と恐らく希望について、信仰者の模範になるほど輝いていると報告したことでしょう。それはこの手紙の最初から何度も語られていました。しかし、ここではそれを詳しく語ろうとはせず、むしろ、パウロたちを好意(愛)をもって覚え続け、会いたいと切に願っている、そこに彼らの信仰と愛を結びつけようとしているようです。「覚え続け」とは、愛が具体的な形になったものと思われますが、それより、「会いたい」と願うことのほうがずっと具体的でしょう。恋人たちはいつも一緒にいたいと願います。パウロは「信仰と愛」よりも「覚え続け」を強調し、更に「会いたい」という彼らの思いを一層力を込めて語っているようです。彼の意図は信仰の具体化でした。何度も称賛されたテサロニケ教会の人たちの信仰や愛が、パウロの目には中味に乏しいと映っているのかも知れません。

 キリスト教はよく理屈っぽいと言われますが、私など一番に反省しなければならないでしょう。しばしば「信仰」も「愛」もことば遊びのようになって、その中味が具体的になっていかないことがあります。もしかしたら、テサロニケ教会のそのような具体性を欠いた信仰の隙間に、ユダヤ人の現実的な律法主義が入り込んでいったのではと思わされます。私たちも気をつけなくてはならないことです。かつて教会に来ていた人が、ボランティア活動のほうに惹かれて、教会を離れてしまったことがありました。中味の濃度が違うと感じたのでしょう。私たちの生き方が、「そうではないよ」と示すことができなかったと、ずいぶん落ち込んだものです。しかし、イエスさまを信じる信仰は、決して絵空事の世界ではない、頭の中の出来事ではないのです。そのようにパウロの意図を聞きますと、10節の「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています」という願いの出所が腑に落ちてくるではありませんか。クリスチャンたちは、やはり、一緒に集まって主を賛美し、祈り、みことばを聞かなければ本物になっていかないのではと思わされます。日曜礼拝を守ることはその意味でも大切です。


V ともに生きる者と

 7節に「このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって慰めを受けました」とあり、9節に「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう」とあるところは、いくらかリップサービスがあるのかも知れませんが、むしろ、信じる者たちが一緒にいるという具体的な信仰に立っていて欲しいという願いに聞こえてきます。それが8節の「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら」という言い方になったのでしょう。

 問題はその次の言い方です。「私たちは今、生きがいがあります」(8) この新改訳の訳ですと、テサロニケ教会の人たちが単なるパウロたちの励みとしか伝わってきません。しかし、ここのパウロの意識はそんな生やさしいものではありません。他の訳はいづれも「生きる」となっています。最もシンプルな訳になっていますので、永井訳からご紹介しましょう。「すなわち、汝らもし主に在りて堅く立たば、今我らは生く」 イエスさまを信じる者たちが「生きる」とは、言うまでもなく、よみがえりのイエスさまとともに新しいいのちを生きることです。十字架に罪を赦され、神さまの御国に招かれた者として永遠のいのちを生きることを意味します。そのところで、「テサロニケ教会の人たちの信仰がパウロを生かす」と言われていることに注意しなければなりません。私たちは、自分がイエスさまを信じたその信仰が、新しい永遠のいのちへの扉なのだと聞いてきました。それはその通りなのですが、自分の信仰だけが唯一天国へのチケットなのだと考えるなら、それは問題です。自分の信仰すらイエスさまから頂いたものです。ロマ3:22やガラテヤ3:26に「イエス・キリストを信じる信仰」とありますが、それは原文では「イエス・キリストの信仰」となっています。その信仰が、私たちを神さまの民・神さまの家族へ招いていると理解するなら、私たちのために祈ってくださるたくさんの方たちを無視して、1人天国になどと言うことはできません。私たちが生きるのは信仰者の交わりの中でだと覚えて頂きたいのです。私たちがイエスさまと出会うために、どんなにたくさんの方たちが祈ってくださったことか。いや、私たちはイエスさまを信じる信仰によって、時間も空間も超えて、世界中の主の民と、パウロ時代の主の民と一つ群れに繋がるのです。そこに生きる者となる。それがパウロの意図した信仰の具体的な生き方ではなかったかと思われます。

 教会を交わりと呼んだ人たちがいました。主に結びつくことと、信仰者たちが互いに愛し、祈り合う交わりとは一つことなのです。そんな交わりと信仰を私たちも目指したいものです。燈架ネットのように顔を合わせることの出来ない交わりもありますが、最小限、互いのために祈り合う者でいたいと思います。いつか、顔を合わせて一緒に主を礼拝したいですね。