テサロニケ書 2:13−16
アモス書   8:11−12

 6 心を込めて

                                                         
T ユダヤ人ということ

 13−16節から、パウロの弁明(1−12節)の続きです。1−12節で、この弁明はテサロニケ教会の人たちの信仰の成長のためであると聞きました。その中心として信仰と愛と希望がハーモニーしていくようにと願ったのは、当時のすべての信仰者たち、そして、現代の私たちにもと言えるのではないかと感じられます。しかしパウロは、ここで新しい主題を語り始めます。いくつかのことを聞いていきたいのですが、ここが私たちへのメッセージであると聞いていくために、まずパウロの弁明が、何に対する弁明かを明らかにしておかなくてはなりません。パウロの脳裏にあったと思われる二つの意識から見てみましょう。

 順序が後先になりますが、まず二番目のところ、14−16節からです。「兄弟たち。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」(14・新共同訳)と始まりますが、第一にユダヤ人の問題です。ここに言われるユダヤ人とは、「わたしたちを激しく迫害し」(15)と、テサロニケで彼を攻撃したユダヤ人を直接指しているのでしょうが、彼らは「主イエスと預言者たちを殺し」(15)、「パウロたちを迫害し」(15)、「神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し」(15)、「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げている」(16)という非難を見ていきますと、それがユダヤ人の本性であると、「ユダヤ人(全般)」を問題にしているのでしょう。実は、そんなクリスチャン迫害者としてのユダヤ人は、かつてのパウロ自身でもありました。恐らく、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロが彼らと同じかそれ以上の保守的なパリサイ人だったと聞き知っていたでしょう。そして、その頑固なパリサイ人が、嫌っていた筈のクリスチャンになったという情報も。それゆえに、彼らはクリスチャンとしてのパウロに一層激しいねたみや怒りを感じたのではないかと想像するのです。


U 神さまのことばが聞かれない時代に

 パウロはそんな彼らに、「こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」(16)と宣言しました。最後の部分は「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しました」とする新改訳の方がいいでしょう。ユダヤ人は間もなくローマ軍と戦って破れ(AD70年)、国を失ってしまいます。神さまの怒りだったのかも知れません。

 ここに彼らの「罪」が問題にされていますが、その前に「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています」(16)とあるところを注意して頂きたいのです。これは、パウロの福音宣教を妬んで騒動を起こしたと考えることも可能ですが、むしろ、この段落の最初にある「神さまのことば」(13)に重ねていると見た方が自然です。彼らは神さまのことばを迫害する者となったとパウロは意識しているのです。もう少し踏み込んでみますと、実は、ユダヤ人たちが「自分たちこそ神さまの選びの民である」と誇ってきたとこれまでにも言ってきましたが、そこには、「自分たちこそ正しい神さまのことばの継承者である」という意識がありました。「神さまのことばを守る正統派」にとって、パウロの語る福音は「誤った神さまのことば」でしたから、それを排除しようとしたのです。妬みのためなどではない、それが彼らの「正しさ・罪」でした。そこが問題の中心点、ユダヤ人の問題を大きく取り上げたパウロの意識もそこにありました。

 その「正しさ」は、私たちも聞かなければなりません。実は、ユダヤ人のことを語りながらパウロは、神さまのことばに聞き従わない者たちを浮き彫りにしているのではないかと感じるからです。アメリカのイラク侵攻がついに始まりました。世界各地の反戦運動は、世界の保安官たらんとする大統領の意識が「NO」と否定されたということでしょうが、アメリカとユダヤ人と、そして私たちの意識すらも、同じところに重なって来るようです。「私は間違っていない」と言って憚らない者たちの問題点の中心は、神さまの前ですらそう主張していることで、まさに現代人の「神さまがいない」生き方につながってきます。神さまのことばを聞かないことに集約されている。だから、私たち全員がこの戦争を引き起こしたと言っていいのではないでしょうか。預言者アモスが「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない」(アモス8:11−12)と叫んだ、その時代が来てしまったのだろうかと悲しい思いでいっぱいになります。


V 心を込めて

 きっとパウロは、その時代の人たちにも同様の頑固さを感じていたのでしょう。パウロがユダヤ人だけをを意識したのでないことは、「あなたがたも同胞から苦しめられている」(14)とあることからお分かりでしょう。そんな中で、テサロニケ教会の人たちは、神さまのことばを素直に聞き受け入れました。パウロの弁明のもう一つのことを聞かなければなりません。

 最初のところに戻って13節からです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」 先週、テサロニケ教会に「パウロのことばは不純なものに満ちている」という批判があると聞きました。パウロは「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています」(2:4)と答えますが、時々へきえきするくらい彼は自分のことを語っているようです。しかしそれは、イエスさまのことだと聞いて欲しいのです。そのことをパウロは、もっともっと煮詰めておかなければと考えたのでしょう。そこには、パウロのメッセージを聞いたテサロニケ教会の人たちは、実は「神さまのことばを受け入れた」のだと、初期教会が確立していかなければならない重要な課題を含んでいました。恐らく、パウロやペテロなど伝道者第一期生ともいうべき人たちの残り時間は少なくなって、あとに続く人たちがどんな福音を語っていくのか、その基準を確立しておかなくてはと、そんな思いがパウロの中に募っていたものと思われます。

 当たり前のことですが、神さまのことば以外にその基準を満たすものはありません。ところが、その神さまのことばとは、私たちの語ってきたメッセージだと、パウロは宣言しているのです。ユダヤ人にとって神さまのことばといえば旧約聖書ですが、その権威に自分たちが語ったメッセージを並べるなんて、と彼らは憤慨したのでしょう。しかし、テサロニケ教会の人たちは、パウロのメッセージの中に救い主イエスさまの福音を聞いて信じました。そして、その信仰はパウロがいなくなっても、彼らの中に確実に育っていました。パウロはこの手紙も含め、自分が語ったイエスさまの福音が彼らの中に働いていることを後々何度も確かめたのではないでしょうか。それはもはやパウロのことばではなく、神さまのことばそのものとして神さまが用いてくださって、神さまのことばそのものだと聞こえてきます。ペテロが第二の手紙で「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるため」(3:2)とは、そのことへのコンセンサスと見て良いのではと思われます。

 新約聖書となった神さまのことばはあなたの魂に語りかけてくださいます。心を込めて読みましょう。それは救い主イエスさまを指し示してやまないのですから。もちろん旧約聖書も。