Tテサロニケ書 2:1−12イザヤ書    61:1−3

 5 信仰の高嶺に

                                                         
T 神さまを喜ばせるために

 1章でパウロがテサロニケ教会のすばらしい点を上げ、イエスさまを信じる信仰にもっと成長して欲しいと願ったと聞きました。しかし、テサロニケ教会に問題がなかったわけではありません。ここでもユダヤ人たちが多数加わっていたようで、恐らく、パウロに反感を持ち、パウロを追い出してしまった者たち、迫害とまでは言いませんが、その彼らがパウロの悪口を教会全体に言いふらしていたのではないかと思われます。それはパウロの働きにブレーキとなるばかりではなく、テサロニケ教会の成長に著しい妨げになっていました。広がり始めているパウロの悪評を修正する必要を感じ、パウロは自分たちの行動について弁明を始めます。2章1〜16節まで続くパウロの弁明の前半の部分、1〜12節を見ていきたいと思います。

 「兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところ行ったことは、むだではありませんでした」(1)と始まりまり、パウロの弁明の中心点は、テサロニケ教会の成長のためであると聞こえます。2節以降を、その視点に立っていると思われる新共同訳で見ていきましょう。

 「無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」(2−4)と言っています。

 パウロを快く思っていない人たちは、「彼は、自分を売り込もうとして福音をごまかしている」と言っていたのでしょう。ピリピ教会から何度も贈り物が届けられたことから、パウロが利益のために働いていると考えたのかも知れません。しかし、パウロたちのピリピでの苦労や、テサロニケでの同じような苦労を彼らは十分に知っていた筈です。利益を求めるためにではなく、神さまから福音を委ねられた者として、神さまを喜ばせようとして語り続けていたのです(5)。まず、「神さまを喜ばせるために」という信仰の視点を、テサロニケ教会の人たちに覚えて欲しいと願ったのではないでしょうか。


U 愛の心が

 パウロの弁明の第二は、6−8節に見られます。「また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです」 テサロニケにいる間、パウロは何度も使徒としての権威を用いようとしました。信じる者たちにとって、使徒であるという権威には、どのような理屈も沈黙させられるものです。そんな伝家の宝刀を引き抜こうとするほど、誕生したばかりの教会にユダヤ人たちの発言が大きかったのでしょう。しかし、使徒としての権威も彼らには無視され、結局、彼らをどれだけ愛しているかが問われていると思い直して、パウロはここで、徹底的に愛の人として立とうとしたのでしょう。

 パウロにとってテサロニケの教会は、苦労しだけ忘れられない教会でした。この手紙にはテサロニケ教会の模範的で立派な面だけが強調されてるようですが、こんな一面があったと知らされます。大きな教会というだけで、非の打ちどころがないように錯覚してしまうのですが、大きいほど人間のエゴーの入り込む余地があると知らなければなりません。権威の強いところに神さまのことばの権威が入り込む余地はありません。しかし、愛は心に届いていくのです。愛の前にはどんな頑なな心も素直になっていきます。パウロの伝道者としての在り方に、愛の忍耐が生まれて来たと言えるのではないでしょうか。「あなたがたはわたしたちにとって愛する者となった」と、これはパウロの重大な信仰の転機でしょうか。信仰の奥義として覚えたいものです。


V 信仰の高嶺に

 弁明の第3は9−12節です。「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちはだれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」 「夜も昼も」とは、テント作りをしながら自分の食い扶持を稼いでいたことを言っているものと思われます。しかし、福音宣教をおろそかにはしなかった。これは私には驚嘆です。「夜も昼も」アルバイトに時間を取られていますと、誰も彼もをひとまとめにしてしまう不心得が生じてくるのですが、「父親がその子供に対するように一人一人に呼びかけ」と、欠けてはならないものと自戒させられます。「一人一人」のことを心配してくださる、イエスさまがそうでした。パウロはそんなイエスさまを倣っていたのでしょう。しかし、こんな弁明をしなくても、テサロニケ教会の人たちはパウロの姿勢を思い出す筈でした。それなのに、こう言わなければならないほど、彼らの目が曇っていたのです。気をつけていなければ、物事を公正に見ることができなくなる。彼らだけの問題ではありません。

 しかしパウロは、彼らを責め立ててはいません。そんな彼らを励まし、慰めながら、イエスさまを信じる信仰に堅く立つように勧め続けています。そんなパウロの優しさも、イエスさまが私たちに接してくださる忍耐と同じではありませんか。福音とは根本的に、そのような人間性を育ててくれるものなのでしょう。そのような者になっていくよう願いたいものです。もちろん、正しく判断する目も備えていかなければなりませんが、それは神さまが与えてくださるものですから、私たちはただ信仰の成長だけを願い、イエスさまだけを見つめていれば良いのです。パウロはそのような立ち方を、「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」と表現しました。御国に招いてくださるという約束は神さまの真実であり、その望みこそ私たちの信仰の根幹をなすものです。信仰と希望と愛が見事に調和して語られています。そんなハーモニーが私たちの中に育てられて、イエスさまを信じる信仰がより高い次元へと引き上げられていくように、パウロの願いが聞こえてくるようです。