テサロニケ書 1:8−1
ミカ書    6:6−8

 4 どのようにイエスさまを

                                                         
T 主に知られている者

 テサロニケ教会の人たちが、ユダヤ人の厳しい迫害に遭いながらも、聖霊に支えられてその信仰を守り通し、愛の共同体として歩んでいることが、各地の教会に聞こえていました。彼らにイエスさまの福音を伝えたパウロは、わずか数週間でそこを去ってしまうのですが、それでもテサロニケ教会の人々は、イエスさまの十字架に罪を赦された神さまの民であると、信仰の原点に立ち続けています。その「神さまの民である」と彼らが掛け値なしに受け止めていたことが、マケドニヤとギリシャの教会に「テサロニケの教会は!」と響き渡ったのでしょう。そこに聖霊の助けがあったことは、言うまでもありません。

 「あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです」(7)とあるのは、パウロが行った先々で聞いたテサロニケ教会の評判を伝えたのでしょう。ところが、それ以外の地域からも、彼らのことが話題になっているというニュースがパウロの耳に届いたのです。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです」(8)とあります。インターネットや電話などがなくても、意外なほどニュースの伝わるスピードは速いそうですが、きっと誕生して間もない教会には、それなりのネットワークが生まれていたのでしょう。特に世界中を住処としていたパウロのもとには、世界各地のそういったニュースがたくさん集っていたのでしょう。迫害など悪いニュースもありましたが、テサロニケ教会については、その真摯な信仰が各地の教会の模範になっているというものでした。その「模範」が幾つも上げられます。


U 主のことばを

 まず、「主のことばが、あなたがたのところから出て」ということです。これは、テサロニケ教会が、パウロの「聖書に基づいて」(使徒17:2)福音を伝えたところから誕生したことにさかのぼります。テサロニケ教会の人々は、スタート時点から「聖書に基づいて」福音を理解するように教えられました。6節に「(あなたがたが)みことばを受け入れ」とあるのはそのことを言っているのです。ですから、彼らは聖書を良く読みながら教えられた福音を咀嚼し、それが、パウロがいなくなってからも信仰の血肉になっていたのでしょう。パウロが教えた第一のことは、聖書を良く読み調べて、自分たちで福音の一つ一つを確かめていくということでした。この聖書とは、旧約聖書はもちろんですが、主にパウロのメッセージを指しており、「主のことば」とはイエスさまの福音そのものであると聞いていいかと思います。きっと、旧約聖書とともに、パウロのメッセージが記録され、それが繰り返し読まれていたのでしょう。そして、今、彼らに届いたこの手紙があります。そういった文書は、「主のことば」として彼らの信仰を支え続けていたました。いつまでも指導者に保護されているのではなく、主のことばに一人一人が向き合っている信仰姿勢が浮かび上がってきます。若い頃に、夢中で聖書を読んだ日々を思い出します。それが現在の私の信仰を支えているのです。勿論、幼くて不十分な理解でしたが、それでも、聖書を読み続けることで、少しづつですがイエスさまの奥行きが分かってきたのです。テサロニケ教会の人たちも同様だったでしょう。その不足を補いたいとのパウロの意識がこの手紙になりました。

実は、そのように意識して書き送られたこの手紙には、秘め事のようにパウロの願いが隠されているようです。「不足を補いたい」(3:10)とあるのに、この手紙にはその不足が何一つ指摘されていないのです。むしろ、彼らのすぐれた点がいくつもピックアップされていて、たとえば、「主のことばがあなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡った」とは、「あなたがたは良く聖書を読んでいる」という称賛でしょう。そこには、「もっと聖書を読んでください」という願いが込められていると聞こえます。それがここでパウロのメッセージとして伝わってくるのです。足りないところを指摘されるよりもっと彼らの励みになったことでしょう。そして、もうひとつのメッセージがあります。聞いてゆきましょう。


V どのようにイエスさまを

 「(他の人々がこう言い広めています)すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(9-10・新共同訳)と、いくつものことが語られていますが、一つ一つ見ていきましょう。

 第一に、パウロたちが迎え入れられたのは、先週聞いたように、彼らがイエスさまを信じ受け入れたことを言っているのでしょう。「どのように」とは、「みことばに基づいて」ということの繰り返し、強調と思われます。きっと、「どのように」と聞いて彼らは、パウロが語った主のことばからイエスさまを信じた初心を鮮やかに思い出したでしょう。それは、その時一度限りのものではなく、繰り返しイエスさまの福音に聞き続け、受け入れ続けて欲しいとパウロが願っているということなのです。イエスさまを信じる信仰は、告白し続ける信仰です。第二に、イエスさまを信じた時に、神ならぬ神・偶像を崇拝することから決別したことも思い出して欲しいと言います。一部の人たちでしょうが、つい昔の偶像が恋しくなって、ずるずると戻って……、そんなことは現代の私たちにもたくさんあるケースです。しかし、イエスさまを信じる信仰はそんな惰性の信心ではありません。毎日神さまを拝み仕える歩みです。それが聖書を読むことであり、祈ることなのです。たとえ私たちの信仰がイエスさまに向かうものだったとしても、みことばに聞くことも告白も祈りもないまま、ただ習慣としての信仰であるなら、それは偶像への信心と何ら変わらないのではないでしょうか。毎週、日曜日に教会で礼拝を守るというだけでも厳しいかも知れませんが、イエスさまを信じる信仰は、それ以上に毎日を主と向かい合っていくことなのです。私たちの時間の一部を主に差し出すのではなく、全ての時間が主のものなのです。心して聞かなければなりません。

 これを新共同訳から見ました。こちらの方が分かりやすいと思うからです。10節には、理解しやすいからでしょうか、イエスさまのことが二つに分けて記されています。一つはやがてもう一度来られるというイエスさま再臨の約束を信じて待ち望む信仰のこと、そしてもう一つは、よみがえりと救いのイエスさまのことです。「来るべき怒り」というのは終末のことですが、ここに十字架が語られていると聞いていいでしょう。救いが終末に渡っていると、格別に聞いておきたいですね。少し大雑把な言い方ですが、私たちの信仰はイエスさまをどう覚えるかにかかっているのです。その意味で、〈十字架〉を断じて過去の出来事として引きずっているのではないとのパウロの強い意識が感じられます。みことばに聞くことも、イエスさまの約束を待ち望むことも、私たちの今のことです。テサロニケ教会の人たちにも、そして現代の私たちにも、パウロは鋭く問いかけて来ます。「あなたの信仰は今、十字架とよみがえりの、そして、やがてお会いできるという約束のイエスさまにつながっているか」と。これはパウロ自身の信仰告白なのでしょう。同じ告白を共有していきたいものです。