Tテサロニケ書 1:4−7
ホセア書    14:4−7

 3 愛・その力を



T 主に知られている者

 このテキストは3節の続きでしょう。「…、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」とあります。テサロニケにいた時間が短かく、十分に福音を伝える時間がなかったのでしょう。3:10にも、「あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています」とあり、その不足をこの書簡で埋めようとしているのです。信仰のこと、愛のこと、望みのことがこの手紙の主要なテーマです。

 「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(1:4)と始まります。ここで、「私たちは知っている」とあるところを正しく理解する必要があるでしょう。パウロの自己主張にはしばしば辟易させられますが、果たしてこれは本当に自己主張なのでしょうか。ここは、テサロニケ教会の人たちに、「あなたがたは、神さまに愛されている選ばれた者なんだよ」と語っていると聞いてよいでしょう。それは実は、かつてイスラエルが誇りにしてきたものなのです。イスラエルにとって、神さまが「知っているよ」と言われた出来事がありました。エジプト脱出の折りです。エジプトで奴隷になっていた彼らが、その労苦に耐えかねて上げた叫びを神さまが聞かれました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」(出エジプト3:7)「知っている」とは、慰めを与えることが出来るお方だから言えることばであって、パウロは、そのお方の側に立って彼らテサロニケ教会の人たちを励ましたのです。5節に、「私たちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」(新共同訳)とあるのはそれを言っているのでしょう。「私たち」と複数になっているのは、テモテやシルワノを含んでいるのでしょうが、それ以上に、「イエスさまとパウロ」から、「知っているよ」と言われたものと聞かなければなりません。伝道者はイエスさまの全権を委託された者として、神さまのことばを語らなければならないのですから。


U 愛の共同体を

 神さまから「あなたがたはわたしの民である」と言われたと聞いてよいでしょう。「神に愛されている」「神に選ばれている」とは、そういう意味なのです。そして、神さまに愛されているところから、彼らの愛の労苦が始まったのです。「多くの苦難の中で」1:6、その労苦は、彼らがパウロの分身としてユダヤ人から憎まれたところに発しています。使徒17章に、パウロたちのメッセージを聞いて福音を受け入れた人たちが出たことから、ユダヤ人にねたみが生じたことが記されていますが、すでにテサロニケを脱出(?)していたパウロの代わりに、彼らの憎しみは、パウロたちが泊まっていたヤソンの家の者たちに向けられました。「神さまに愛されている」「神さまに選ばれている」とは、ユダヤ人たちの専売特許でした。彼らがクリスチャンたちを激しく妬んだのは、パウロの宣教が原因というばかりではなく、彼らのねたみが町の人たちを巻き込んでの暴動となり、ヤソンたちの告発となっていったのです。「ヤソンと兄弟たち」(使徒17:6)とは、恐らく、誕生したばかりの教会の人たちのことでしょう。ユダヤ人たちは、教会が危険分子であると町の人々に巧みに反感を植え付け、以後の教会迫害をテサロニケ全市を挙げてのものとしていきました。この手紙が書き送られるまで半年足らずですが、パウロが「苦難」ということばを使うほど、その間の迫害が厳しいものであったと理解できます。

 そんな状況の中で、教会の人たちは互いに兄弟姉妹と呼び合い、イエスさまを信じる信仰が麗しい愛に満ちたものとなっていきました。外からの迫害に対し、教会内では互いに一つ思いとなる愛の信仰が育っていったということなのでしょう。ユダヤ人たちの告発を受けて、町の役人たちがヤソンたちから保証金を取って釈放したとありますが、そんな金銭的な犠牲を払ったことも、彼らの連帯意識を強める一因になったのかも知れません。連行されなかった兄弟たちもその保証金を負担したのではないでしょうか。そして、愛の連帯意識が強くなればなるほど、いよいよユダヤ人たちの反発が激しくなっていったのではと思われます。


V 愛・その力を

 「私が知っている」という宣言から、テサロニケ教会の人たちが「神さまの民」であると聞いてきましたが、続いてパウロは、その保証するお方のことを覚えて欲しいと願っています。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、(人間としてのパウロの)ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」1:5 ここでは三つの別のことが並べられたのではなく、聖霊なる神さまのお働きのことだけが語られているのです。力も確信も聖霊なる神さまのお働きに関わることです。このお方のことは、パウロ神学の中心主題なのですが、現代の一部の教会に、あまりにも露骨に「聖霊」だけを強調する人たちがいて、それがしばしば騒々しい新興宗教に似ているものですから、嫌悪感もあって、このお方のことを正しく知ろうとして来ませんでした。依然、私たちにはミステリーな部分ですが、現代に働いておられるお方ですから、もっと理解を深めていかなければと思います。

 聖霊なる神さまのことでまず思い浮かべるのは、三位一体の第三ご人格ということでしょう。これは、唯一の神さまが父・子・聖霊という三つの位格を持っているというミステリーに満ちたものです。聖書にはない言葉ですので、三位一体という言葉にはそれほど拘らなくてよいでしょう。しかし実際には、聖書にたくさんの証言があって、使徒信条にも「われは聖霊を信ず」と告白されているのですから、私たちの信ずべきお方であることは間違いありません。そしてこのお方は、イエスさまが天に戻られる時、「あなたがたに助け主を送ろう」と言われたお方です。「聖霊汝らに下るとき、汝ら力を受けん。しかして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、更に地の果てまで、わが証人とならん」(使徒1:8)と始まる教会の時代(現代に続いている)は聖霊の時代であり、助け主の時代であると聞いてゆかなければなりません。また、使徒1章の記事が同じ記者によるルカ伝の終わりの部分に重なるところから、「力」(24:49)としての神さまと理解できるかと思います。ここでは聖霊なる神さまの説明をしようと思っているのではなく、昼も夜も私たちの信仰を守り支えてくださるお方と受け止めて頂ければ幸いです。

 そしてパウロがこの書簡で覚えて欲しいと願っていることに、聖霊は愛の神さまとして信仰者の生き方を教えてくださるお方であるということです。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニヤ州とアカヤ州(ギリシャ)にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」(6−7・新共同訳)ここに二つの交わり(信仰者たちとの交わり・神さまとの交わり)が語られています。それはいづれも愛を中心とする交わりでありますが、苦難を耐え抜く力をパウロは、聖霊なる神さまが注いでくださる愛によって獲得していくんだと語っているように聞こえます。「聖霊による喜び」という言い方は、愛が溢れる信仰者の生き方そのものを感じさせるではありませんか。頑張る意識からは苦難を耐え抜く力は生まれてきません。震災で経験したばかりです。しかし、愛はその力を生み出して余りある、力そのものなのでしょうね。神さまからの愛にはなお一層の力があります!