Uテサロニケ書 3:16−18
イザヤ書    61:1−3

 27 溢れる賛美が


 
                                                        
T 一つ信仰に

 テサロニケ書の最終回です。最後の挨拶の部分ですが、パウロは、テサロニケ教会の人たちに「平和」と「恵み」を願いながら筆を置こうとしています。「どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように」(16)、「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」(18) この「恵み」と「平和」の中に、パウロが込めた最後のメッセージを聞いていきたいと思います。

 まず第一のことですが、パウロは、このテサロニケ書ばかりでなく、彼のほとんどの手紙を「恵みと平安がありますように」という挨拶から始め、「恵みと平和がありますように」と締めくくっています。平安と平和は「エイレネー」という同じギリシャ語です。それぞれの手紙の中身は違いますが、その違う中身を「恵みと平安」というラップでくるんでいると言えそうです。もちろん、中身も大切にちがいありませんが、それを包んでいるラップ、「恵みと平安」には、パウロがいろいろな教会に手紙を書き送った時の、共通した一つの目的が語られているようです。初めと終わりにある「恵みと平安」の挨拶はパウロ書簡の定型ですが、恵みはギリシャ文化系、平安はヘブル文化系の挨拶に属するものでしょう。その二つを並べて、異邦人の使徒として、パウロならではの独特の定型となっています。それは、「主があなたがたすべてと、ともにおられますように」(16)とあるように、イエスさまはギリシャ人もヘブル人も、その他如何なる文化圏をも超えたところで主であるという意識を確立して欲しいとの願いからです。当時の教会は(エルサレム教会などユダヤ地方の教会を別にして)、ほとんどがユダヤ人と異邦人から成り立っていました。そのような中で、ユダヤ人たちは教会内に自分たちの律法信仰を持ち込もうと、問題を引き起こしがちでした。パウロは、イエスさまを信じる信仰は、そんな文化圏を超えた、福音という共通な一つ信仰であって欲しいと願っていたのでしょう。それが平和ということばに端的に現われているように思われます。


U 罪赦された平安を

 教会がいろいろな地域に広がり始めているパウロの時代に、イエスさまを信じる信仰は一つであるという意識は極めて大切なことでした。その意識を、まず一つ教会の中で確立していくことでした。多くの地域教会の歩みも、その一つの教会から始まるのですから。特にテサロニケ教会には、ユダヤ人問題が大きな障害でした。教会内に分裂騒ぎも起こっていたようですから、格別に、イエスさまの「恵み」と「平安」を中心に、一つにまとまることが重要だったのでしょう。それは、教派・教団が中心になっている現代の教会についても同じと言えそうです。

 さて、その「恵み」と「平安」ですが、パウロが先に平和を取り上げていますので、まず平和からみていきましょう。「平和の主」とあり、すぐに思い出す聖句があります。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです」(マタイ5:9) 山上の垂訓からの一節ですが、山上の垂訓はイエスさまの教えというより、イエスさまご自身が語られていと聞かなければなりません。「平和をつくる人」はイエスさまご自身です。イザヤが「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。……その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(9:6)と預言したように、平和をご自身の本質としてお生まれになったお方でした。

 <平和がイエスさまの本質である>という言い方は、少々分かりづらいかも知れません。<平和を創り出すためにお生まれになった>と言ったらいいでしょうか。これは、戦争や紛争のない状態を指しているのではなく、パウロが言うように、神さまとの平和(ロマ5:1)と理解すべきです。繰り返しましょう。イエスさまは神さまと私たちの間に平和を創り出すために私たちのところにおいでになりました。それが十字架に実現したのです。ガラテヤ書にこうあります。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」(1:4) 贖罪ですね。聖なる神さまの前で、罪ある私たちが死ななければならなかったのに、罪なき方であるにもかかわらず、イエスさまは私たちの身代わりとして死んでくださった。その身代わりを有効と認めて、神さまは私たちと和解(ロマ5:10)してくださったのです。これが「神さまとの平和」です。十字架に罪赦された者だけが持つ「平安」と言えるでしょう。今、このメッセージを聞いているあなたに、その平安を、神さまとの平和を得て欲しいと心から願います。パウロは何よりもあなたに聞いて欲しいと願っているのですから。


V 溢れる賛美が

 もう一つ、パウロはこの手紙を、「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」という祝福のことばで閉じようとします。17節に「パウロが自分の手であいさつを書きます。これはどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です」とありますから、最後の祝福はパウロの直筆でした。本文は、パウロの一行に加わっていたシルワノが、パウロの語ることばを筆記したのでしょう。それは、当時のローマ貴族の本や手紙などの書き方だったこともあるでしょうが、もしかしたら、ガラテヤ書に「こんなに大きな字で書いています」(6:11)とあり、それはパウロが目に不自由を感じていた(眼病?)ためではないかと言われていいます。それとほぼ同じころの手紙ですので、この最後の祝福も大きな文字で記されたのではと想像します。つまり、特徴のあるサインでした。しかし、単なる文化人の習慣としてではなく、パウロは、どうしてもこの部分を自分の手で書きたかった、この部分をどうしても読んでもらいたかったからでしょう。

 パウロのそのこだわりは、「イエスさまの恵み」にありました。聖書には何回も「信仰によって義とされる」とあります。聖書の中心思想の一つです。義というのは「正しさ」ですね。クリスチャンにとって、その「正しさ」が一番であるとしばしば錯覚しますが、勘違いしないで頂きたいのです。正しさは神さまだけのものであって、断じて私たちが主張していいものではありません。もし私たちが「自分は正しい」と互いに自己主張するなら、きっと争いが絶えないでしょう。

 イエスさまの福音の中心は「恵み」にあるのです。先に、「キリストは今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」(ガラテヤ1:4)を、平安との関わりでみましたが、その前のことばは、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」(1:3)です。平安の中心がイエスさまの十字架であったように、恵みもまた十字架の中心なのです。いや、「十字架はイエスさまの恵みの中心である」と言っていいでしょう。パウロのこの最後のあいさつは、イエスさまの十字架の恵みを覚えて欲しいと聞こえてきます。イエスさまの十字架の恵みに出会うなら、人間同士の争いも解消し、赦し、赦される幸いを覚えるからです。テサロニケ教会は今、そんな赦しが聞かれる必要がありました。彼らに起こっているさまざまな問題の中心は、自分の正しさを主張するところから生まれた争いだったのでしょう。信仰というものは、神さまを基準にした絶対の正しさを教え、それを内面に養ってくれるものだけに、ある面で厄介ですね。私たちは、正しさを主張する神さまの前には立つことの出来ない者なのです。しかし、イエスさまの十字架に出会う信仰なら、その恵みの前でなら、喜びも感謝も賛美も溢れてくる。その賛美を私たちの中に溢れさせようではありませんか。