Uテサロニケ書 3:6−15
詩編      46:10−11

 26 静まってまず主を


 
                                                        
T 信仰はどのように

 3:6−15からです。6節に「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」とあります。「怠惰な生活を戒める」、この箇所の主要テーマと考えていいでしょう。この怠惰がどういうことか、前回推測したことをもう一度繰り返します。テサロニケ教会の一部の人たちは、終末のことを聞き、すぐにでもイエスさまが再臨されると思ったのでしょうか。「こんなことをしてはいられない」と働くことを止めてしまいました。彼らは教会(一部の家の集会)に逃避し、そこで祈りや伝道といった「信仰」漬けの共同生活を始めたのでしょう。異端教会などにみられる狂信的集団と化してしまった群れが、このメッセージの背景になっています。その意味で「怠惰」とは、言葉の裏に隠されているもう一つのニューアンス、「無秩序」と訳したほうがいいのではと思われます。イエスさまを信じる信仰は、決して狂信や無秩序ではないというパウロのメッセージが聞こえてくるようです。

 このテキストは、「兄弟たち、わたしたちは、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」(6・新共同訳)と始まります。パウロは「イエスさまの名によって命じる」と、「わたしたちの教え」がイエスさまに起因するものであることを強調し、その使徒としての務めの中で、《秩序ある信仰生活》を教えようとしているのでしょう。この言い方には、これまで何回か見てきたパウロ=イエスさまという彼の主張が見られます。イエスさまを信じる信仰が私たちの中でどのように表現されていかなければならないのか、このテキストには、そんなパウロの意識がにじみ出ているようです。今朝はその辺りのことを探り、私たちの信仰生活の在り方を聞いてみたいと思います。


U 喜びの信仰を

 「あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした」(7−9) 少し考えてみたいのですが、教会に逃げ込んだ人たちにとって、食べるという日常生活が無くなったわけではないのです。それなりのお金がかかる、その経費をどうしていたのでしょうか。資産家の指導者? 誰かの犠牲的な働きによって? 結局、そういった犠牲の上で、いかにも熱心な〈信仰生活〉が継続されていたのでしょう。

 しかし、そんな人たちも、パウロと一緒に過ごした日々を思い出す必要がありました。パウロは、「テント作り」の仕事をしながら、自分の食い扶持を稼ぎ、その上で福音伝道のために働いていたのです。ユダヤでは、律法学者や教師といった人たちが神さまのみことばに仕えることから利得を得ないという社会通念がありました。それで彼らは別に「羊飼い」や「百姓」といった職業を持っていたようです(実態は小作人にさせて、それを搾り取っていたのでしょうが)。かつて新進気鋭の律法学者だったパウロは、恐らく、エルサレムに留学した当初から、天幕作りを自分の職業と決めていたのでしょう。時にはサポートを受けて伝道に専念した時期もありましたが、そんなユダヤ人社会の素晴らしい伝統を忠実に守り、それを伝道活動に生かしてきたと思われます。

 伝道者がサポートを受けながら働いていく。それは、伝道者にとっても、サポートする人たちにとっても、すばらしい信仰の姿勢でしょう。パウロが、サポートを受ける権利(9)と言っているのは、教会に対する権利というよりも、神さまに対する訴えと聞いたほうがいいと思います。また、教会もそれを自分たちの尊い務めと受け止めたいですね。伝道者が神さまのみことばを伝えようと働くことも、また、教会の人たちが祈り、献げることも、神さまのお働きに参加していくことに変わりはありません。そこに喜びがあるように、それが信仰の世界と言えるのではないでしょうか。しかし、教会の長い歴史の中で、それが教会税のように扱われ、貧しい人たちを苦しめた時代がありました。そんな、信仰の喜びを伴わない事態が、もし現代の教会にもあるとしたら(若い人たちの中にはサラリーマン牧師という意識があるそうですが)、ある意味で、パウロのこのメッセージは現代への警告でもあると考えさせられます。献身して間もなくの若い頃、牧師の家庭で一緒に食卓についてびっくりしたことがあります。おかずは何もない、ごはんにお塩をかけて食べているんです。梅干しすらありませんでした。伝道者とはこうなのだと、ものすごい覚悟をさせられました。


V 静まってまず主を

 「あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(11) これは考えさせられるところです。「余計なこと」が新改訳は「おせっかい」、口語訳では「いたずらに」、永井訳は「不要のこと」となっている。きっと、自分たちの狂信的な生き方こそ信仰者の真の生き方であると、周りの人たちを仲間に引き込もうとして動き回っていたのでしょう。その動きがテサロニケ教会を混乱に陥れていたために、パウロのこの警告になったのでしょう。「それはイエスさまを信じる者たちの動き方ではないよ」と聞こえてきます。落ち着いた静かな生活の中にこそ信仰者の生き方がある。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12)とは、その意味で聞かなければなりません。ワアーワアー騒ぐだけが信仰ではない。むしろ、信仰者として足りない自分を「赦してください」と静かに祈る姿勢こそ、神さまの前に喜ばれるのだと覚えて頂きたいのです。今、伝道者の覚悟ということに触れましたが、信仰者たちが「それほどの覚悟を」と勧められているのではありません。どんなに働いても、それが食べることの保証になるわけではない。食べることが出来るのは、神さまの恵みなのですから。「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな。これらのものはすべて神さまが備えてくださる」、「だからまず神の国と神の義を第一に求めなさい」と言われたイエスさま、パウロが勧めようとしているのもそのことではないでしょうか。騒がしい混乱の現代に、この中心メッセージをこそ聞いていきたいですね。

 最後のところから、もう一つのメッセージを聞いてみたいと思います。「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」(14−15) このところをパウロは、教会の大部分の人たちに宛てて書いています。熱心な人たちから見れば、彼らは恐らく生ぬるい信仰者たちではなかったでしょうか。そして、これまでに指摘してきたように、たくさんの問題も抱えていました。テサロニケ書は、そんな彼らを励ましながら、そういった問題を何とか乗り越えて欲しいと願うパウロの優しさが溢れた書簡と言えそうです。

 パウロはそんな教会の人たちに、信仰の純粋さを守る厳しさと、間違いに突っ走る人たちを切り捨ててしまわない優しさを学ぶように勧めていると感じられます。イエスさまを信じる信仰は、対人関係の中に如実に現われて来るところがあります。目の前にいる人たちにどう対処していくのか、それが自分の信仰の中身を問い掛ける試金石となります。「イエスさまを信じる信仰が、私たちの中でどのように表現されていかなければならないのか」、これがこのテキストのパウロの意識ではないかと問題提起をしてきました。みことばに聞きながら大人の信仰者として成長していくように、主を見つめることも、人を見つめることも、そこらからと教えられます。