Uテサロニケ書 3:1−5
イザヤ     43:1−4

 25 キリストの愛に


 
                                                        
T ゆっくりと確実に成長を

 テサロニケ書の再開です。
 前回、3:16−17からパウロの祈りを聞きました。パウロがどれほどテサロニケ教会の人たちを愛し、その苦難を心配し祈っていることか、その熱い思いが伝わってくるようでしたが、それは、「イエスさまも同じなんだよ」と聞こえてきます。

 今朝のテキストは、「終わりに兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないのです」1−2・新共同訳)と始まります。

 パウロの願いは、イエスさまの言葉(福音)がたくさんの人たちに受け入れられ、イエスさまの聖名が世界中で崇められるようにということでした。「速やかに」とありますが、彼が福音を宣べ伝えている時に、多くの障害がその前に立ちはだかり、福音伝播の妨げになっていたことを指しているものと思われます。「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように」とあるのは、その障害が多くの場合、ユダヤ人の悪意であったと暗示しています。その迫害の中で誕生し、今なお苦しんでいるテサロニケ教会ですが、彼らにはパウロの願いがよく分かっていたことでしょう。パウロとテサロニケ教会の人たちが共通の問題を抱え、祈りで結ばれていたと感じられますが、祈りとはイエスさまを中心とするコミュニケイションです。現代の私たちも、イエスさまを主であるとする信仰によってだけではなく、祈りという極めて具体的なところで結ばれているのは、何とすばらしく、心強いことでしょう。

 もう一つ、テサロニケ教会は、短期間のうちに成長していました。「速やかに」とは、そんな急成長した彼らの自信を指しているのではないかと想像します。「あなたがたはマケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になった」(第一1:6−7)と言われる通りだったのでしょうが、しばしば、そのような自信は信仰者の落とし穴になります。5節に「主があなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(新共同訳)とあり、その辺りのことを指していると聞こえてきます。主のことばが速やかに広がっていくようにと心から願いますが、反面、私たちの信仰の歩みはゆっくり、しかし、着実であるよう願いたいのです。


U この時代の中で

 「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」(3・新共同訳) パウロを悩まし続けているユダヤ人問題は、テサロニケ教会にも共通の事柄でした。そしてそれは、当時の全教会の問題でもあったのです。クリスチャンたちの信仰を揺さぶる問題はユダヤ人問題だけではなく、他にも多く出て来ていたのではと考えられます。現代の私たちには、ユダヤ人問題よりも他の問題、教会に対するノンクリスチャン問題のほうがずっと深刻でしょう。テサロニケ教会にもそんな兆候が出始めていました。使徒17章には、ユダヤ人が町のならず者をかり集め、群衆、役人を巻き込んでクリスチャンたちを迫害し始めたという記事がありますが、それは、そんなこの世の人たちの教会に対する敵視を象徴しているようです。イエスさまを信じる信仰が世間一般から尊敬されていることは事実ですが、と同時に彼らは決してその信仰に同調しようとはしません。むしろ敵対しているといったほうがいいでしょう。「すべての人に信仰があるわけではないのです」(2)とあるのは、「イエスさまを信じない人が断然多いのです」と聞いていいのでしょう。パウロは、人間社会をイエスさまを信じる者と信じない者との二つに分けて、その対立と考えているようです。究極の構造は、きっとそうなのでしょうね。

 そのような中で、ともすれば「神さまは私たちの祈りを聞いてくださっているのだろうか」と疑問に思うことがあります。栄えているのはこの世の知恵を駆使しているこの世に属している人たちだけではないか。そんなふうに、しばしば神さまの守りが見えなくなっているのは私だけでしょうか。しかし、それでも「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」と、これは変わることのない主の約束であると聞かなければなりません。そう聞くことで、「わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」(3・新共同訳)とあるパウロの願い通りの生き方に直結していくのでしょう。パウロの命令が具体的に何を意味しているかは不明ですが、きっとそれは、愛であり、誠実であり、感謝の生き方であり、ひたむきに神さまのみ国を目指す生き方であると想像します。祈りとはそんな生き方の中から生まれてくるものであると思うのですが、いかがでしょうか。


V キリストの愛に

 この部分をパウロは、彼らに対するとりなしの祈りで締めくくろうとしています。「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(5) まず「神の愛」が何を指しているのか考えてみましょう。恐らく、6節以降で言及されていることに関していると思われます。そこでパウロは、テサロニケ教会の一部の人たちが「怠惰な生活」をしていると言いますが、中には働くことをやめてしまった者たちがいると、極めて具体的な指摘をしています。これは単なる怠け者の自堕落な生活を指しているのではなく、その信仰内容を鋭く指摘したもののようです。以前にも少し触れたことですが、パウロから終末のことを聞いたテサロニケ教会の人たちが、「すぐにでもイエスさまが来られる」のだから、この世のくだらない営みをしている場合ではないと、働くことをやめてしまいました。彼らは教会に入り浸り、伝道に、祈りに熱中しています。そのような彼らは自由人ばかりでなく、奴隷もいた筈ですから、働くことをやめたとは、主人のもとから逃げ出し、教会に逃避して来たいうことでしょうか。教会(恐らく一部の家の集会)もそんな彼らを受け入れています。狂信的と言ったらいいでしょうか。宗教というものにはそうした部分があって、キリスト教も例外ではありません。現代教会の一部の人たちも、そんな熱心を信仰と勘違いしているようです。パウロはそのような彼らの「信仰」を正常とは見ていません。信仰とは、私たちを罪から救い出してくださったイエスさまの十字架の愛に根ざすものであって、盲信や狂信のたぐいではないのです。「神の愛を悟らせてくれるように」とは、そんなパウロの願いの現われではないかと思うのです。

 もう一つ、「キリストの忍耐」も、彼らの信仰が正常に戻っていくのを辛抱強く待っている神さまの愛の姿を彷彿とさせてくれます。これが「神の忍耐」ではなく、わざわざ「キリストの」と言われるのは、そこに十字架の苦闘を聞いて欲しかったからでしょう。神さまの愛は十字架に集約されているのです。ですから、神さま(イエスさまと言ったほうがいいでしょうか)は愛のお方であって、怒りや裁きを優先されるお方ではありません。いくら繰り返しても言い足りないほど、このことは私たちの信仰生活の中心であると言っていいでしょう。私たちのイエスさまを信じる信仰には、恐らく、数え切れないほどの間違いがある。しかし主は、そんな私たちを愛し、間違いに気づき修正していくのを辛抱強く待っていてくださるのです。私自身のことを考えても、どんなかそうした主の忍耐があったことでしょう。間もなく50年になろうとしている信仰生活は、十字架の主の忍耐の上に築き上げられてきた言えます。きっと、パウロもそうだったのでしょう。これはパウロの信仰告白と聞こえてきます。私たちの告白も重ね合わせていきたいですね。