Uテサロニケ書 2:16−17
詩編       119:49−50

 24 主ご自身と向き合うように


 
                                                        
T 主が愛してくださるから

 信仰の危機に遭遇している人たち、なおも信仰を守り続けている人たち、そしてその対立など、そんなテサロニケ教会の苦闘に心を痛めているのでしょう。パウロは、2章で取り上げたこの主題を祈りをもって閉じようとします。今朝はその祈りの2:16−17を見ていきましょう。

 「どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」 

 この祈りは第一の手紙3:11−13の祈りに重なるのでしょうか。それよりも短いのですが、短いだけにパウロの思いがぎっしりと詰め込まれ、密度の濃いものになっているようです。いくつもの聞きたいところがありますが、欲張らずに三つのことだけを見ていきたいと思います。第一に、「私たちを愛し」です。第一の手紙では「あなたがたの愛を増させ」とあり、パウロの祈りは、テサロニケ教会の人たち(現代の私たちをも含む)が愛の人になっていくようにというものでした。ここもそれと同じ願いだろうと思いますが、ここでは「主が私たちを愛してくださる」となっています。これは、私たちがしっかりとわきまえておかなければならない点でしょう。互いに愛し合う、弱い人、貧しい人、困難の中にある人を愛するその姿勢は、何よりも、主が私たちを愛してくださるところから出発することで、可能ではありませんか。私たちの都合でくるくる変わる愛が、私たちを結びつけているのではないと聞かなければなりません。くるくる変わる愛、これは現代を象徴しています。終末に向けて愛が冷えつつあると思わされます。初期教会にも襲いかかったそんな世相の中で、イエスさまの十字架の愛は私のためであるとパウロは受け止めていたのでしょう。その信仰こそパウロの祈りの根幹になっているのです。これはパウロの信仰告白であると同時に、彼の中心メッセージであると聞こえてきます。そして、このパウロの信仰こそ、今の私たちに求められていることではないでしょうか。


U 神さまご自身である主

 第二に聞きたいのは、イエスさまと父なる神さまとが同一お方か、それとも別のお方なのかと議論の分かれるパウロの言い方です。新改訳は「私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神」としており、第一の手紙も同様で、「これは新改訳の勇み足であろう」とあっさり片づけていたのですが、それはどうも私の勇み足ではなかったかと思われてなりません。十分にパウロのメッセージを聞いていなかったと感じています。

 この「私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方」というところには、原典で「そして」という接続詞が入っています。この接続詞は、「私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わる私たちの父なる神」(口語訳)のように、イエスさまと父なる神さまとを並列にならべる時に普通に用いられるのですが、そのように、どうもこの接続詞を英語の同格接続詞 "and" と同じと考えてしまうところがあります。ところが、ギリシャ語はそんなに単純ではないのです。いろいろな使い方があって、一つは、前に述べたことを補足説明するために、「すなわち」と訳し得ることばなのです。永井訳はここをそのように聞いたのでしょう。「我らの主イエス・キリストすなわち神にして我らの父」と、実にはっきりしています。

 ここでのパウロの中心メッセージは、「主が私たちを愛してくださる」ことであると聞きました。すると、私たちを愛してくださる神さまの愛という中心主題にまで踏み込まなければなりませんが、それはイエスさまの十字架の贖罪に凝縮されていて、「イエスさまは私のために十字架におかかりになった」と受け止めつつ、この祈りを書き送ろうとしている、パウロの信仰告白であろうと聞きました。すると、第一の手紙であっさり<新改訳>の勇み足と片づけていたところが、そうではなく、新改訳の方が文脈に叶っていると感じられてきます。ここは神さまの愛が中心主題であって、イエスさまこそ、父神さまの愛を具体化した存在なのですから。使徒信条に代表される私たちの信仰告白では、イエスさまが「私たちの主である」ということが非常に大きな部分を占めますが、その「主」とは、「イエスさまは神さまご自身である」ということなのです。神さまご自身であるお方が、私たちのために十字架におかかりになってくださった。だからこそ、その贖罪には私たちを罪から救う力が込められているのです。神さまお一人だけが罪のないお方だからです。私たちの信仰を、救い主であり、主であり、栄光の神さまご自身であるイエスさまに献げていきたいですね。


V 主ご自身と向き合うように

 もう一つのこと、17節からです。「どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださいますように」(新共同訳)

 祈りの中心が神さまへの願いごとであるとするなら、ここがパウロの祈りの中心であると言っていいでしょう。もっとも、クリスチャンの祈りには、呼び掛けも感謝も賛美も問いかけも、うめきすらも含まれますので、願い事だけを祈りとするのは少々抵抗がありますが、それでも、あえて祈りの中心部分は「願いごと」であると感じます。その願いごとがテサロニケ教会の人たちへのとりなしなのです。願いごとが自分のことばかりという祈りを反省させられます。

 さて、この祈りの中に、「いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださいますように」とあります。「働き」とは、新改訳に「あらゆる良いわざ」とあるところから、日常生活全般にわたるクリスチャンとしての在り方を指しているのでしょうから、テサロニケ教会の人たちが確かなクリスチャン生活を営んでいくことが出来るようにとのパウロの願いなのでしょう。しかし、ここに並べられている「言葉」については、微妙にひっかかります。なぜ「言葉」なのでしょう。もしかしたら、言葉が力を失っている現代だから、「なぜ言葉なのか」という疑問が出てきたのかも知れません。この「言葉」にどのようなメッセージが込められているのでしょうか。

 きっとパウロの時代には言葉に力があったのでしょう。しかも、それ以上にことばはイエスさまと信仰者とを結ぶ絆でした。パウロが彼らにイエスさまの福音を伝えたのも言葉に依っていましたし、彼らが信仰者として聞いていくべき規範は「神さまのみことば」でした。迫害という苦難の中を、みことばに聞くことで信仰を守り通していくように勧められているのです。ところで、不法の人へのイエスさまの裁きが「御口の息をもって彼を殺し」(2:8)であったことを思い出しますと、この「息」は、神さまが人をお造りになった時に、「その鼻から息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった」(創世記2:7)という息のことです。不法の人を殺すことも出来、私たち信仰者を生かすことの出来る息(霊)を、「みことば」と言い換えてもいいでしょう。私たちが聞くべきみことばは、主ご自身のことと聞こえてきます。「私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった」(16)とある主の一切の賜物が、この「言葉」に凝縮されているのではないでしょうか。パウロはテサロニケ教会の人たちに、それほどの信仰の成長を願ったのです。現代の私たちにもと聞かなければなりません。聖書を開くとき、また、祈るとき、礼拝に加わるとき、そこでイエスさまご自身と向き合っていると覚えて頂きたいのです。