Uテサロニケ書 2:13−15
ゼカリヤ書   2:7−11

 23 初穂としての愛を


 
                                                        
T こぼれ落ちないように

 少し充電させて頂きましたが、またテサロニケに戻ります。イエスさま再臨に先駆けて背教が起こり、不法の人が現われるとパウロのメッセージを聞きました。不法の人はサタンの力を行使して、イエスさまを信じる人たちを信仰から引き離そうと、更に徹底した戦いを挑んでくるでしょう。パウロの「滅びる人たち」へのメッセージは、信仰から離れようとしている人たちへの鋭い警告かも知れません。「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです」(11−12)とは、神さまがそんな人たちに敵対するとのパウロの宣言と聞こえます。

 「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについては、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」(13・新共同訳)

 信仰の危機に遭遇している人たちが多かったのでしょう。神さまの裁きを初めに取り上げているのは、そうした理由と推測されます。テサロニケ教会の存続が非常に厳しい状況下にあると感じているのかも知れません。パウロの暖かい目が、信仰を守り通そうとしている人たちに向けられます。離れていく人たちに比べ、信仰を守り通そうとする人たちはいつの時代も少数派です。パウロの時代も現代も、その状況は変わらないようです。旧約聖書の時代もそうでした。アブラハムが甥ロトのために執り成しをした時に、ソドム、ゴモラの街に10人の正しい人を見出すことができませんでしたし(創世記18章)、士師ギデオンがミデアン人に戦いを挑んだときにも、神さまはわずか300人を選んで戦士とし、その300人で戦いに勝利を収めました(士師記7章)。聖書は神さまの民を「残りの民」と呼んでいるのです。今でも日本のクリスチャン人口は1%に満たないのですが、イエスさま再臨の時に残っていく信仰者の数は極端に少なくなるのではないでしょうか。こぼれ落ちる人たちの中に加えられることのないように願いたいものです。


U 主の栄光に招かれて

 13節を新共同訳で紹介いたしました。パウロの暖かい目を感じるではありませんか。「神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」(14・新共同訳)という励ましがテサロニケ教会の人たちの心の耳に届いていったと感じます。「パウロの感謝」はどういうものなのでしょう。「霊の力」、「あなたがたの信仰」などいくつか考えてみたいところはありますが、このパウロの目が実は神さまの目だと受け止めますと、そんな細かなことはどうでも良くなってきます。ここでは二つのことを聞いてみましょう。

 一つは「初穂」ということです。不法の人に組みする者に厳しい目を向けられる主が、私たちを「初穂」として慈しんでくださる。これは、新改訳のように「あなたがたを初めから選んだ」と訳したほうが原典に近いと思いますが、新共同訳は「初穂」を採用しています。そう読んでいる写本があるのですが、それを採用した訳者の生き生きとした信仰が伝わってくるようです。子を持つ親なら、子どもが熱を出して苦しんでいると代わってやりたいと思います。子どもの寝顔を飽きずに眺めて、この子を守るぞと世界一の勇者になることが出来るのです。子どもたちが何人いても同じ、どの子もどの子もたった一人の子どものように大切です。「初穂」にはそんな意味が込められています。主にとって私たちは何千人、何万人というクリスチャンの中の一人ではないのです。私たち一人一人に、「あなたがたに触れる者はわたしのひとみに触れる者だ」(ゼカリヤ2:8)という愛を注いでくださって、それが永遠の初めから「選んでくださった」ということなのでしょう。

 もう一つの「主イエス・キリストの栄光に招いてくださる」ということですが、太陽を直視することができないように、私などにはまぶし過ぎて、それがどんなにすばらしいことなのか良くは分からないのですが、王さまの食事に招かれて、一緒にその席に座るという光栄になぞらえますと、何となく分かるような気がします。きっとそれ以上の光栄に招かれているのでしょう。


V 初穂としての愛を

 ここでもう一つ、パウロから聞いておきたいことがあります。

「ですから、兄弟たち。しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(15)とありますが、これは、初期教会の人たちが迫害という厳しい時代を通して、どのようにその信仰を守り通してきたか、その辺りの事情を物語っている証言ということが出来るでしょう。

 パウロの説教や手紙については、それがイエスさまの福音そのものであると、第一の手紙にも非常に強く意識されてきたことが繰り返されています。そこに問題があるわけではありません。それより、「しっかり立ちなさい」、「固く守り続けなさい」という二つの動詞を考えてみたいのです。「イエスさまの福音にしっかり立ちなさい」、「その福音を固く守りなさい」ということですが、この「しっかり立つ」はパウロだけが用いる言い方で、<イエスさまの福音をすでに信じているのだから>という信仰の確定の上で、「しっかり立ちなさい」と命令形になっているのです。くどい言い方になりますが、「あなたがたはしっかり立っているのだから、しっかり立ちなさい」という二重の意味が込められていると聞いて頂きたいのです。現代聖書学者たちは、これを「キリスト教的実存」という言い方をしていますが、「固く守る」は、「つかみ取る」というニューアンスの濃い言い方ですので、目には見えないイエスさまを、すぐそばに見ているかのように感じつつ信仰の歩みをしていくということなのでしょう。パウロ自身の信仰の在り方は、そのような極めて実存的なものでした(実存と言っても、近代哲学が言うような中身のない実存ではありません)。よみがえりのイエスさまにお会いした時の感激を、パウロはずっとその内面に持ち続けていたのでしょう。パウロがお会いしたイエスさまは、同行者たちには見えなかったことを忘れてはなりません。

 現代の私たちも、時代が離れ過ぎているためか、イエスさまが見えず、また見ようともせず、信仰が論理的、経験的な観念的なものに陥ることがあります。福音を言葉上のものとして、もて遊んでいるようなところがあるようです。聖書信仰ということにこだわり続ける私などは、よくよく気をつけなければならないことす。考えてみますと、テサロニケ教会の人たちがパウロの手紙を熟読してそのメッセージを聞こうとしていたのと、今の私たちは全く同じ条件下にあるのです。この手紙から、テサロニケ教会の人たちが「しっかり立ち続けた」という印象を受けるのですが、現代の私たちはしょっちゅうふらふらしています。どこが違うのでしょうか。「信仰によって目に見えない方を見るようにして」(ヘブル11:27)という信仰の在り方が問題ではないのかと反省させられます。「しっかり立ち、なおもしっかり立つ」という二重構造が三重四重にもなるような立ち方をしていきたいですね。イエスさまにお会いしたいなら、忙しいとか機会がないという言い訳はなくていい、主は私たちを「初穂」として愛してくださっているのですから。