Uテサロニケ書 2:1−12
ダニエル書 12:1−3

 22 その日を間近にして


 
                                                        
T 恵みを聞きたいですね

 今朝は2:1−12からですが、パウロがこの第二の手紙を書き送ろうとした目的の一つがここではないかと思われます。この手紙の中心主題です。

 「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」(1)

パウロが書き送りたいと願った一つは、イエスさま再臨の時に関することでした。「イエスさまが再び来られること」と「私たちが主のもとに集められること」と、二つのことが取り上げられていますが、第一の手紙には「キリストにある死者がまず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」(4:16−17)とありました。「集められる」とは恐らくそのことを言っているのでしょう。イエスさま再臨の希望は、私たちが主にお会いすることが出来るという希望です。それはとても大切なことですが、そこに問題が生じやすいことも事実でしょう。キリスト教2000年の歴史には、何度もその希望をえさに福音とは別のものが跋扈してきました。テサロニケ教会の人たちも、特別にその希望を持っていたのです。緊迫した状況の中で、その希望にしがみついていたといったほうがいいのではと思われます。そこにいくつもの問題が生じていました。パウロはそのことについて、「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(2)と警告します。「霊によって」とは、恐らく宗教的霊感のことでしょう。宗教家(牧師も含めて)が、さも何かあるようにもったいぶって霊感を売り物にしています。そんなことは頼りにならないと、パウロは極めて手厳しくこきおろしています。その通り、聖書のメッセージから外れたインスピレイションを有り難がるのは間違いの元と決めておいたほうがいいようです。

 「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい」(3)とあります。聖書に聞こうとしない時に、そんな惑わしのことばに聞いてしまうのでしょう。神さまのことばは人を不安に陥れるものではなく、神さまの恵みを知らせ、イエスさまにある救いに招いてくださるものなのです。


U 不法の力が

 テサロニケ教会で、一部の人たちとはいえ、そんな惑わしのことばを鵜呑みにして、「もうイエスさまが来ておられるのだ」とか、「明日にでも来られる」とパニックに陥っています。そんな動揺がじわっと広がっていたのでしょうか。3章の主題になっている、「働かない人」が出て来たこともそんな動揺の中ででした。そんな人たちにパウロは、イエスさまがおいでになる前にどんなことが起こるのか、終末を迎える時の決定的とも言える事柄を伝えます。これは終末のタイムテーブルに数えられることでしょう。現代の私たちも覚えておかなければなりません。

 「なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです」(3) 「不法の人」と言われる人物の出現です。パウロはテサロニケにいるときに詳しく話していたことを、ここに繰り返したようです。私たちも何度も確認する必要があるでしょう。こうあります。「彼はすべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(4)「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます」(9−10)

 こう読みますと、彼は私たちの時代についに登場して来るのではないかと感じられます。<神は人間の創り出したもの>という考え方が蔓延している現代こそ、「神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し」という不法の人の登場を可能にしているではありませんか。そして、あらゆる神的存在を否定する彼は、ついに自ら神の座に座ろうとするのです。もしかしたら、或る聖書学者たちが言うように、彼はエルサレム神殿内に自分の座を設けるのかも知れません。そして、しるしや不思議という奇跡を行なって自分の力を誇示します。この意味では、癒しや奇跡を行う?宗教家たち(カルト宗教家、一部のキリスト教牧師も含む)が登場して来た今の時代は、不法の人出現の前兆かとも感じまです。しかし、その力はサタンから来たものであるとパウロは指摘します。今の時代、癒しや奇跡の力を持っていることはサタンによるのだと覚えて頂きたいのです。彼が「自分こそ本当の力ある神なのだ」と宣言し、多くの人たちがその前にひれ伏し、受け入れるでしょう。すでに多くの人たちが、彼のミニチュアとも言える宗教家(或いは政治家?または現代科学)の前にひれ伏しているではと思います。しかし、彼はその人たちを破滅へと導いていくのです。


V その日を間近にして

 テサロニケ教会の人たちは、そんな不法の人が力を振るう終末の時代に生きる意欲を失っていたのかも知れません。彼らにとって、ユダヤ人たちの迫害は生やさしいものではなかったのです。いのちを失った信仰者たちが何人も出ている状況です。その状況と、パウロから聞いた終末の苦難の時代が重なったとしても不思議はありません。そう感じたからでしょうか。パウロは彼らの希望のために、不法の人をはるかに上回るイエスさまの力を証言します。「不法の人の力はすでに働いているのですが、彼を取り去ろうとする神さまの力が、まだ時至っていないのです」(7・意訳)「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(8) 「御口の息」とは、アダムをお造りになり、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人はいきるものとなった」(創世記2:7)と言われる息のことです。恐らく、人を生かした主の息は、不法の人の存在そのものを痕跡が残らないほどに消してしまわれるという意味なのでしょう。そんな力をお持ちになるお方が私たちの主なのです。

 終末の、不法の人の登場に始まる苦難の時代を、主の希望を見つめて生き抜いていく。それがイエスさまを信じる信仰であると思うのですが、その信仰に重大な障害が生じ始めていることに注意を払う必要がありそうです。不法の人出現の前に、「まず背教が起こる」と言われていることに注目して頂きたいのです。パウロの隠されたメッセージが聞こえてきます。背教とはイエスさまを信じる信仰を捨てて他の神に走ってしまうことですが、大量の背教者が……という時代が、ローマの初期教会迫害によるものを含めて過去にはいくつかありました。「転びバテレン」などは日本人の私たちには身近な例ですし、第二次世界大戦の折りにも、そんな人たちが多くありました。しかし、迫害など特別な理由もないのに、まるで靴下でも脱ぐようにあっさりと信仰を捨てる人たちがいる現代。その多さは迫害の時代を上回っているのではないかと思うほどです。もともと明確な信仰告白がなかったのか、或いは、教会自体に問題があってのことなのか、人それぞれの事情があるのでしょうが、何とも悲しいことです。これがパウロの言う「背教の時代」に呼応していなければいいのですが、重なっているように感じられてなりません。

 その背教の時代に不法の人が出現すると言われ、彼の出現は、たくさんの背教者が出てきたという下地があってのことと、パウロは言っているようです。きっと、クリスチャン個々人、そして教会自体が考え、反省しなくてはならない問題をいくつも抱えているのでしょう。不法の人の出現を許すのは、実は私たちではないかと聞かなければなりません。「その時」に、主の前に喜んで立つために。