Uテサロニケ書 1:11−12
詩編      149 :1−150:4

 21 我が心主をあがめ


 
                                                        
T 召しにふさわしく

 今朝のテキストは、「そのために、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています」(11)と始まっているように、パウロの祈りの部分です。「そのために祈っている」と、5節と11節に同じ言い方が繰り返されているところから、「あなたがたを神の国にふさわしい者とするために」が願われてのことと思われます。テサロニケ教会の人たちにさまざまな問題があったとしても、彼らがその信仰を最後まで全うすることが出来るようにとパウロは願っているのでしょう。「終末の時が近づいている」から、その最終段階を見据えてのパウロの勧めであり祈りなのでしょう。そしてそれは、現代の私たちにも、イエスさまを信じる信仰を最後まで守り通し、やがての日に喜びとともにイエスさまにお目にかかろうではないかという励ましと聞こえてきます。

 「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように」(11) と、これが祈りの全文ですが、まず「召し」ということからです。これは「呼ぶ」という言い方で、「食べてはならない」と言われていた木の実を食べて、神さまの目を逃れて身を隠したアダム、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼ばれたエデンの園の出来事以来、神さまと人との関係を端的に示す言い方となってきました。それは、丹誠をこめてお造りになった人間をご自分の民として招いて来られたのに、人間は神さまから離れよう離れようとしてきたということです。旧約聖書はイスラエル民族を通してそのような人間の歴史を描いていると言えましょう。そんな人間をなおも神さまは、イエスさまの十字架という恵みを用意してまで惜しんでくださったのです。新約聖書はそんな神さまの恵みの呼び掛けに満ちています。ちょっと考えてみたいのですが、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださるように」とはいかにも奇妙な言い方です。どうしてそんな言い方になったのでしょうか。「私たちがその召しにふさわしい者となるように」という中には、私たちが神さまの招きに応えた者であるという前提があるのですが、私たちの「召し」は、神さまの全く一方的な恵みのお働きでした。そうしますと、「召しにふさわしい者としてくださるように」とは、神さまへの応答の部分、信仰を整えてくださるようにという祈りであるとしても、神さまご自身のもう一度のお働きを願う祈りに他ならないのです。神さまは私たちのために何度も何度も心を砕き、働いていてくださいます。そんなパウロの意識がこの言い方になったものと思われます。


U 神さまのお働きが

 この祈りをそのように聞きますと、パウロのこだわりを見るような気がします。きっと、テサロニケ教会の人たちは、信仰のこと、愛のこと、善のことにも、「自分たちの」というレベルで右往左往していた、それほど厳しい状況だったのでしょう。それがパウロの耳に届いてこの手紙となった。もちろん、具体的ないくつもの問題も聞こえていたのでしょうが、パウロが彼らの問題の中心と感じていたのは、自分中心に世界が回っていることだったのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、神さま中心の生き方を覚えていくことであると、この祈りのパウロのこだわりは、そこにあるようです。

 先週、神さまは私たちをご自分の高いレベルに引き上げようと望んでおられると聞きましたが、実は、そのレベルでものを考え、意識し、判断し、生活しようと願わないことこそ、私たちの問題の中心だと思うのです。それは、神さまから遠く離れその恵みを忘れてしまった人間の、身についた生き方なのかも知れません。神さまの恵みに生きるよりも、努力して自らの欲求を満たしていく。その努力が現代人の、特に科学面での高いレベルになってきたと思っているところがあるのです。近代化とは教会離れに始まったと、歴史家たちが口を揃えて論じているところですが、クローン人間などを作り出すところまでやって来て、人間は自ら神さまの領域に近づいて来たと勘違いしています。もう神さまなしで十分やっていける! しかし神さまは、高々何千年かの歴史を重ねただけで「ついに到達した」と言えるほどにちっぽけな存在なのでしょうか。何年も何年もかけてほんのわずかなアミノ酸を合成し、「ついにいのちを作り出した」と有頂天になっている人間。しかし、神さまの創造はそれとは比べものにならないレベルです。それどころか愛も知恵も善も力も、神さまは私たちの想像を遙かに超えたレベルのお方なのです。そのお方を見つめているようにと、第二の手紙はそれが中心になっているのです。神さまを中心に世界が回るように、決して自分中心、人間中心ではありません。「全うする」とは、「満ちている」(口語訳)としたほうが良く、神さまのお働きが、いや、神さまご自身が私たちの中に充ち満ちていくようにと願っているのでしょう。神さまが私たちの中に充ち満ちていく。それが信仰であり、神さまの高いレベルに引き上げられて「召しにふさわしい者となっていく」ということなのでしょう。


V 我が心主をあがめ

 「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです」(12) 

 パウロの祈りは、私たちの中に神さまが充ち満ちていくようにというものでしたが、そんな神さまが私たちを主導してくださるという生き方には、他の人たちと違ったところがあって当然でしょう。パウロはここにその違いを二つ上げました。一つは「主の御名があがめられ」、もう一つは「あなたがたも栄光を受ける」。「あがめる」と「栄光を受ける」と二つのことばがあるような訳になっていますが、もともとは「グローリア」ということばが一回用いられるだけです。そのグローリアが、私たちから主へと、主から私たちへと溢れていく。そんな言い方なんです。すると、私たちが主を賛美することは少しも不思議ではありませんが、「主が私たちを賛美する」とは何とも奇妙な言い方に聞こえます。恐らく、私たちを神さまのレベルに引き上げるということなのでしょうが、終末のイエスさま再臨のときのことを言っているのでしょう。黙示録には「勝利を得る者にはこのように白い衣を着せられる(3:5)とありますが、パウロの「義の冠」(Uテモテ3:8)やゼカリヤの「きよいターバン」(3:5)とともに、神さまの前に出る時の礼装と考えていいでしょう。それを主が用意してくださるのです。「あなたがたを神の国にふさわしく」とあった5節の言い方は、それを指していると考えられるではありませんか。さて、私たちにはどんな礼服なのでしょう。

 信仰のありったけを注いで主を賛美する。もしかすると、賛美そのものが私たちの礼服なのかも知れません。おびただしい数の聖徒たちが賛美しながら御座を目指して上っていく。そんな夢を見たことがありますが、まことに聖徒の口には賛美が似合うと思いませんか。聖日礼拝の時に、思いっきり主を賛美しているかと問われる思いが致します。忘れられない告白にウエストミンスター教理問答(大・小)の第一問があります。「人の生きる主な目的は何であるか」「人の生きる主な目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことである」 宗教改革者の信仰を引き継いだ人たちの中に、この告白が生まれました。このいつまでも色あせない告白を、私たちは、自分たちのものとして告白しているでしょうか。ぬるま湯に漬かったような自分自身の信仰を反省させられます。詩編の記者とともに賛美したいものです。「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。踊りをもって御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。主はご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる」(149:1〜4)