Uテサロニケ書 1:5−10
イザヤ書    40:9−11

 20 神さまのレベルに


 
                                                        
T 神さまの御国にふさわしい者と

 迫害と患難に耐え、忍耐しつつ信仰を守り通そうとしているテサロニケ教会の人たち(世界中の教会の人たち)に、パウロはその忍耐を誇りとしていると宣言しました。なぜなら、その忍耐はイエスさまが十字架で示されたものであり、十字架の救いは忍耐の上に成り立ったと言っていいからです。彼らの忍耐は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスさま」に倣うものでした。忍耐は信仰の重要な側面です。

 パウロは、その忍耐が、神さまにどのように受け止められるかを明らかにしようとします。5−10節です。「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです」(5) 少々分かりにくい言い方ですが、パウロは慎重にこの中心主題を取り上げていますので、私たちも注意深く進んでいかなければなりません。新共同訳など分かりやすさを主眼にしているものは、かえって焦点がぼけてしまっているようです。<このこと>(忍耐しつつ信仰を守り通そうとしていること)は、<あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしである>とあります。ところで、<神の国にふさわしい>とは、「信仰的にも倫理的にも立派で非の打ち所がない人格者」が神さまの国に入る条件というイメージがあるかも知れません。しかし、そんな意識のもとでは、信仰は人格形成の手段に過ぎなくなってしまうでしょう。はっきりさせておかなければならないことですが、「神さまの御国にふさわしい」者としてくださるのは、神さまだけであって、私たちの側のいかなる条件、忍耐すらもそこから排除されなければなりません。<神さまの正しいさばき>とパウロがここに加えたのも、これが中心主題だと言いたかったからでしょう。この難解な表現が何を意味するのか、だんだんに明らかになってくる筈です。


U 神さまのみ前に立って

 6−7節をご覧ください。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります」 ここでパウロが語ろうとしているのは、最終的なイエスさまの救い、「終末の安息」なのでしょう。「神さまの正しいさばき」がそのときにはっきりしていくのです。

 一つのメッセージを聞いてゆきたいのです。パウロはここで、イエスさまを信じる信仰のゆえに苦しめられている者たちに安息を与えるお方は、同時に、迫害者たちに「苦しみ(9節では永遠の刑罰)」を用意しておられると語ります。これはを勧善懲悪ではありません。気をつけねばならない点があります。終末の時に、誰が永遠の刑罰に行くかを特定してはいないことです。一応の「信じない者」という基準はありますが、「信じた者」たちが、「あなたは信じないから地獄に行く」と断定することは出来ませんし、また、絶対にしてはならないことでしょう。イエスさまを信じた者たちにとって、救いは主の恵みによる以外になく、今は「信じていない」人たちも、「信じた」者たちの仲間に加えられる可能性が最後の日まで消えないからです。ですから、ここでのパウロの第一のメッセージは、「信じない」者たちへではなく、「信じた」者たちへの慰めとして、「神さまの目はあなたの苦しみを見ており、あなたの祈りは届いている」と聞くのです。山上の垂訓にこうあります。「兄弟に向かって腹を立てる者はだれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22) 「腹を立て」られ、「能なし」、「ばか者」とののしられた人(きっと貧しい小作人でしょうか)が、ののしった地主を地方裁判所に訴えても、そんな告訴は門前払いされ、最高裁に上告しても同じでしょう。しかし、その人の悲しみも、神さまは聞いてくださると慰めが語られているのです。

 加えて、私たちのどんな些細な罪も神さまの目を逃れることは出来ないと語られています。パウロはこのメッセージを意識したのです。「神さまの裁き」は、出来れば避けて通りたいのですが、聖書のメッセージですからはっきりさせておきましょう。人は誰でも神さまの前に立たなければならないのです。その時には、「神を知らない」、「主イエスの福音に従わない」ことが問われるのでしょうか。そんな時がすぐそこまで近づいています。


V 神さまのレベルに

 もう一つのパウロのメッセージです。神さまの「正しさ(義)」ですが、パウロは注意深くことばを換えながら、信仰の告白としてそれを語っているようです。このテキストだけでもそれらしい言い方が繰り返されていますのでピックアップしてみましょう。「神の正しいさばきを示す」(5)、「神にとって正しい」(7)、「主は……報復されます」(8)、「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受ける」(9)、「ご自分の聖徒たちによって栄光を受け」(10)、「信じたすべての者の感嘆の的になる」(10)

 こう見てきますと、全く違うことのように感じるられるかも知れませんが、いづれもに神さまの、そしてイエスさまの存在そのものが力強く主張されています。「恵み」がそうであったように、「正しさ」も神さまの全ご人格を示すものでしょう。「正しさ」とありますが、これは「義」と置き換えたほうがいいかも知れません。義とは、秩序も愛も広さも、神さまの何もかもが包括されたものです。世界にまだ「正しくない」ものが存在しなかった時に、神さまはお一人でその義を執行されました。世界と万物を、そして人を創造された時のことです。創世記1章には、「神は見て、それをよしとされた」、「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」と繰り返されています。創造には神さまのありったけが注ぎ込まれ、そのすべてが完璧なのです。ところが、この神さまの「義」は、アダム以来、人間との関わりの中で、徹底的にないがしろにされてきたと言えるでしょう。だからこそ、神さまは人間に対してその義を強く主張されたのです。旧約聖書はその主張で満ちています。そして、イエスさまの十字架は、ご自身のありったけの「義」が込められた主張なのです。ところが人間は、イエスさまの十字架を聞いて反応しない、近代神学は、「神は死んだ」と言っているほどです。

 そんな神さまの義の完全な復権は、おそらく終末の時なのでしょう。終末のイエスさま再臨の様子をパウロが、「神さまの正しいさばき」とか「不信仰者に報復される」と、迫害者との関わりを取り上げているのは、彼らによってさえその栄光が輝いていくのだと、彼の信仰姿勢を強く示したもののようです。その終末が近づいている今、不信仰者たちが意図せずに表わした告白以上に、賛美にも祈りにも、みことばを聞く耳にも、精一杯の信仰を込めていきたいではありませんか。私たちが主張している、間違いだらけの「正しさ」があります。そんな争いの原因にしかならないものにしがみついている私たちですが、義と栄光の主に目を向けていくなら、主は私たちをご自身の高いレベルにまで引き上げてくださるでしょう。神さまの義を人間のレベルに引き下げて議論している私たちを、栄光の世界に招いてくださろうとしているのです。その高いレベルにふさわしい者となっていきたいものです。