テサロニケ第一  1:2−3
エレミヤ書 31:3−

愛の戦いを
                                                            
T  祈りと感謝を

 先週、このテサロニケ書が、パウロの働きの一つの重要な軌跡を決めるきっかけになったのではないかと推測しました。〈一つの〉というのは、教会宛に手紙を書き送ることで、イエスさまを信じる信仰の内容を確立していくことでした。当時の教会は、まだまだ草創期にあって、バプテスマのヨハネのバプテスマしか知らないアポロのように(使徒18:25)、解決しなければならない信仰理解が山積されていましたから、誰かが「キリスト教神学」を総合的に構築していかなければならない時代であったと言えるでしょう。パウロはその役割を、自分に課された働きの一つではないかと意識していたのかも知れません。諸教会に手紙を書き送る中で、それをしていこうと願ったのでしょう。テサロニケ書はその発端になったものと思われます。

 1:1の挨拶のところで、そんな彼の願いが聞こえて来るようでしたが、今朝のテキスト2−3節には一層その思いが明確に現われて来るようです。「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」ここから二つのことを見ていきたいのですが、第一のことは祈りと感謝です。これは、挨拶に続くパターンとして他のほとんどの書簡にも見られるものですが、それはパウロ書簡の定型と言うよりも、パウロがその一つ一つの教会のために日夜祈り、たとえ問題があったにせよ、その教会が主に守られて立ち続けていることを、心から感謝していたことから出たものなのでしょう。祈りと感謝は、キリスト教教理などと取り立てていうものではなく、パウロの信仰生活でした。パウロというと、キリスト教教理を構築した人として知られていますが、冷たい理論家ではなかったことがここからもお分かりでしょう。祈りも感謝も、イエスさまを信じる信仰の中身なのです。そしてきっと、他のキリスト教教理と思われていることも、パウロの中では、冷たい理屈などではなく、どれもが生き生きと息づいて神さまに結びつく信仰の告白ではなかったかと思われてなりません。私たちの信仰が、そんな生き生きとした祈りと感謝を土台にしているかと、問われているのでしょう。


U  信仰、愛、希望

  第二に見ていきたいのは「信仰、愛、希望」という3つことばです。この3つは5:8にも繰り返されており、コロサイ1:4−5にもあって、特にTコリント13:13「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です」は有名で、暗記している方も多いでしょう。パウロ神学の中心主題と言えるでしょうね。

 ところで、ここにはほとんど説明らしいものはなく、わずかに 「信仰の働き」「愛の労苦」「主イエス・キリストへの望みの忍耐」ということばがつけられているだけで、考えてみたら不思議なことです。この書簡を学んでいこうとして、一つの仮定を考えました。テサロニケ書は13通あるパウロ書簡の最初のものと考えられていますが、この書でパウロは、キリスト教神学に手をつけ始めたのではないかということです。それならば、パウロ神学の中心主題と思われる信仰、愛、望みということに何らかの説明があってしかるべきでしょうが、何の説明もされていない。そればかりか、数年後のコリント書では他のことばをつけることさえもせず、「信仰、希望、愛」としか言っていません。それは、当時の問題教会とされるコリントの人たちでさえ、イエスさまを信じる者の基本的な在り方として聞き知っていたからでしょう。もちろん、他のところでその一つ一つを繰り返し丁寧に語っているからでもありましょう。テサロニケ前後書の特徴の一つとしてイエスさま再臨の様子が描かれていて、その陰に隠れて見落としがちではありますが、信仰と愛、これも大きなテーマになっていることを見逃してはなりません。他の書簡にも言えることです。

 この二つの推測のことで、第一の信仰と愛と望みがクリスチャンの基本的理解として認められていたことでは、人々がイエスさまを信じた時のパウロのメッセージがそこに根ざしていたからではないかと思うのです。つまり、イエスさまの福音ということばに集約された信仰、愛、望みが宣べ伝えらたのではないかと想像します。テサロニケ教会発端のところに「聖書に基づいて、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそキリストなのです』と言った」(使徒17:2-3)とあることも、冷たいキリスト教教義ではなく、その中に信仰も愛も望みもぎっしり詰まったメッセージと聞こえてきます。


V  愛の戦いを

 そしてもう一つ、信仰も愛も望みもたっぷり本文に語られていて、それをこれから見ていくわけですが、実は、パウロの願いもそこにあったのではと想像するのです。テサロニケの教会の人たちがこの手紙の信仰と愛と望みを、イエスさまを信じる自分の中身であると聞いて欲しい。その願いを込めて、この手紙の中心主題は「信仰と愛と望み」であると示したものが2−3節なのではと思うのです。ですから、ここに取り立てて詳しく説明する必要はなかったのです。コリント書の方は、イエスさまの福音の中心主題が「信仰と愛と望み」なんだと、もっと全体への広がりを持っているのでしょう。

 少々理屈っぽいことを言いましたが、このタイトル的な言い方の中にパウロが、テサロニケ教会の人たちに、これから聞こうとする信仰と愛と望みをどのようなところで受け止めて欲しいと願ったのか、加えられたことばから探ってみたいと思います。「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」はその通りの原文なのですが、新共同訳は「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」と訳し、ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「あなたがたの信仰が行いの中に、あなたがたの愛が労苦の中に、そして、あなたがたの私たちの主イエス・キリストに対する望みが忍耐の中に、いかにして示されてきたか」ともっと具体的なニューアンスを込めています。どちらも意訳ですが、パウロの願いを良く伝えた訳ではないかと感心しました。信仰も愛も望みも、私たちのイエスさまを信じる信仰の歩みの中ににじみ出て来ることが期待されているのです。頭だけで理解するのではない、「どのように示されてきたのか」と私たちの信仰告白と聞いてゆく事柄でしょう。

 終わりに一つ、「愛の労苦」ということを覚えて頂きたいのです。現代の愛が冷えていく中で(今、戦争だ、戦争だと声高に叫ばれている声は、愛とは対極の憎悪が生み出すものでしょう)、おまえは愛するためにどれほど苦しみもがいたかと、自分に問いかけてみなければなりません。自分との戦い、それを戦い抜いていきたいのです。パウロの殉教間近に書かれたコロサイ書(AD54年頃)に「キリスト・イエスに対する信仰、すべての聖徒に対する愛、あなたがたのために天にたくわえられてある望み」(1:4−5)とありますが、聖徒たちへの愛を育てられなくて、どうして、他の人たちを愛することが出来るでしょう。中味が変えられていく必要がある。そうでなければ、愛する者にはなれない私たちです。タイトル的表面的な愛ではなくて、本文中にたっぷりと語られている豊かな内容を伴う私たちの愛であり、望みであり、信仰に生きる者でありたいと願います。まず、十字架のイエスさまがありったけの愛を注いで私たちを愛してくださったのですから、願うなら、きっと、私たちも本気で愛することが出来る者になれるのではないでしょうか。