Tテサロニケ書 5:23−28
エレミヤ書   29:10−14

 18 主への応答を


 
                                                        
T 信仰者は信仰によって

 この書簡を締めくくる挨拶の部分です。しかしここには、これまでに語ってきたいくつものメッセージがピックアップして繰り返され、更にその上に、信仰者の基本的信仰姿勢が、どうしても覚えて欲しい勧めとして加えられているようです。

 ここはパウロの祈りで始まります。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(23) 第一に聞きたいことは、この書簡のいくつかの中心主題がここに繰り返されている点です。「平和の神」、「あなたがたを聖なるものとして」、「主イエス・キリストの来臨」 いづれもパウロが力を込めて語ったものでした。その一つ一つに込められたメッセージを思い出して頂きたいのです。十字架の愛と救いに預かり、神さまの聖に召されたこと、そして、そのように神さまの民に加えられた者たちが、間もなく、再びおいでになるイエスさまにお目にかかることが出来るということを。しかし、この書簡の中心主題は他にいくつもありました。喜びや感謝もそうですし、信仰、愛、希望など、その代表と言えましょう。それなのに、ここに、「平和」、「聖」、「来臨」と殊更3つの主題が取り上げられたのはなぜでしょうか。何回も読み返してみますと、この3つのテーマから、迫害下におけるテサロニケ教会の人たちの信仰の苦闘が浮かび上がってくるようです。「あなたがたは、聖なる者として召してくださった平和の主に属しているのだ」とするメッセージは、信仰者は信仰によって生きるのだと聞こえてきます。そのメッセージを、現代の私たちもまた聞かなければなりません。それは、平和の主、聖なる神さまご自身が私たちの中に働いてくださってこそ可能となるのです。ここがパウロの祈りになっているのは、そうした意味においてなのでしょう。「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」 細かなことは分かりませんが、困難な中にも神さまの守りが私たちのすみずみにまで行き届きますようにという祈りなのでしょう。


U 彼はこれを為し給うべし

 第二に覚えたいことは、24節に「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」とあることです。新改訳では原文のニューアンスが伝わってきませんが、永井訳には、「汝らを召し給いし者は信なる者、彼は(これを)為し給うべし」とあります。(新共同訳「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」) 神さまのなさることは確定・断定なのですね。永井訳は見事にそのように訳出しました。彼の信仰なのでしょう。

 神さまは、私たちをあらゆる危険の中で日々守ってくださいます。これは間違いのないことですが、それを、他宗教にも見られるような単なる守りと聞くべきではありません。「召された」とあるのは、私たちをいのちに召し給うたこと。滅びゆく肉体のいのちではなく、神さまの御国で永遠に憩う魂の救いを頂いたいのちにです。十字架のイエスさまが語られていると聞こえてきます。十字架上でご自分の死をもって私たちの罪を赦してくださったお方は、私たちが御国に凱旋するまでそのいのちに責任をもってくださるのです。私たち信仰者としての生き方を支え、励まし、時には私たちの重荷を背負い、敵対する者の前に防御壁となってくださる。そんなご自分の、人格のすべてを注ぎ込んで私たちに関係してしてくださるのです。「真実なるお方」とは、そうしたニューアンスで言われています。考えてみてください。総理大臣か天皇陛下が(私としては余り好きなたとえではありませんが)あなたのことを絶えず心にかけているとしたら、どんなにか光栄に思わないでしょうか。それどころではありません。私たち人間とは全く異なる天地万物の創造主、全知全能で栄光あるお方、神さまご自身であるお方が、こんなにも弱く小さく間違ってばかりいる者のために、その人格すべてを傾けて関わってくださるのです。有り余る力のかけらを小出しにというのではなく、全力投球で私たちの前に立ってくださるのです。何と光栄なことではありませんか。

 十字架の主の真実、誠実、ご愛に心を馳せてゆきましょう。ピリピ書に、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(1:6)とあります。私の大好きな個所ですが、私たちがどれほど不誠実でちゃらんぽらんであっても、このお方の誠実は変わらないのです。私たちを信仰という輝くような生き方に導き、そんな輝きに戸惑っている私たちの前を、いつも先に立って歩んでくださるのです。「あなたを守る」とは、私たちの前向きな生き方に関わってくださるということなのです。


V 主への応答を

 イエスさまのそんな全力投球に対して、理解も反応も鈍い私たちですが、いつまでもちゃらんぽらんでいいわけではない。私たちもまたそのお方に全力投球の反応を示していかなければと思うのです。「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」(25)、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい」(26)、「この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます」(27)と、密度の濃い勧めが語られますが、これらは、私たちの反応を言っているのでしょう。反応というよりも、応答でしょうか。

 職場で一つの実験をしました。言葉が悪いですが、出来る限り「ありがとう」を忘れないで行こうと決めたのです。アルバイトで回る冷蔵倉庫に、不愛想で乱暴で威張っていて、思わずムッとさせられる人がいたのです。しばらくは我慢して笑顔でいたのですが、一向に関係が改善してゆきません。クリスチャンとしてどう立ったらいいのか悩みました。そして、誠実であることだと信仰者の原則を思い出したのです。「ありがとう」がその時から始まりました。4ヶ月かかりましたが、今では挨拶もしてくれるし、人なつっこい笑顔も見せてくれるようになりました。仕事上の不都合も解消したんですね。私の誠実などこんなものですからあまり良いたとえとは言えませんが、誠実な主と不誠実な私たちとの関係のようではありませんか。4ヶ月が4年になっても、主は私たちの誠実を待っておいでです。祈りも挨拶も私たちの主に向かう信仰告白なのです。口先だけではない信仰告白と言ったらいいでしょう。みことばに聞きながら、イエスさまを信じる者ならではの信仰姿勢です。

 最後の挨拶からもう一つ聞いてゆきましょう。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように」(28) 「恵み」のことは、先週、「イエスさまご自身のことである」と聞きました。この手紙は「恵みがありますように」と始まり、「恵みがありますように」と締めくくられています。恵みの主がこの書簡一杯に溢れているのです。だから、よくよく読んでみると問題の多いテサロニケ教会が、その恵みに生かされて、模範的教会に数えられているのです。きっと、パウロの中にイエスさまの恵みが一杯詰まっていたからでしょう。イエスさまの恵みに生かされるなら、人を見る目が優しくなる。イエスさまを信じる者たちの基本的な立ち方は、そんな優しさではないかと思うのです。裁くことは神さまにお任せしましょう。祈り、心を開いて愛のこもった挨拶をしましょう。私たちを愛が支配していくように、信仰とはイエスさまの愛に始まっているのですから。