Tテサロニケ書 5:16−22
イザヤ書    54:7−10

 17 十字架の主に


 
                                                        
T平和の君を

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(5:16−18)) 今朝のテキスト冒頭の部分ですが、これは、今年この講解説教を始めることになった標語聖句です。新年礼拝(1月5日)でこの箇所を取り上げましたが、恐らくここには、新年礼拝で聞いた「祈りの勧め」以上に、もっと奥行きの深いメッセージが込められているようです。この箇所は、非常に良く知られていて、祈りの勧めとして、また、日常の喜びや感謝の生活を勧めるものとして、何の脈絡もなしに引用される傾向にあるようです。それは間違ってはいないのですが、ここでパウロのメッセージを聞こうするなら、彼が今までに語って来た「信仰と愛と希望」や「信仰の具体化」といった中心主題と切り離して見ることは出来ません。文脈が大切なのです。そのことを念頭に置きながら、改めてテサロニケ書という文脈の中でここを聞いていきたいと思います。

 この手紙でパウロが問題にしてきたのは、イエスさまを信じる信仰の具体的な在り方ということでした。特に3:11−13にあるパウロの祈り以降、5章の終わりまではそのことにを集中しているようです。先週聞いたように、恐らく、5:6の「慎み深くしていましょう」という信仰の具体的内容が、12節以下に記されているのです。第一の勧め、12−15節では、「お互いの間に平和を保ちなさい」(13)と言われ、イザヤが指し示した「平和の君」を見据えることこそ信仰者たちの何よりも大切な点であると浮かび上がってきます。信仰の具体化、その中心は、人と人、人と神さまを結ぶ平和の主イエスさまを見つめることです。この「平和」には、愛も赦しも救いも、イエスさまの全ご人格一切が含まれています。そのイエスさまを見つめるなら、愛することも、認め合うことも、善を行なうことも、励まし合うことも、不可能ではなくなるでしょう。自己中心的な私たちには、本来考えられないことですが。


U 喜びと感謝の恵みに

 同じ文脈の中で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」と聞いてゆいかなければなりません。すると、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と加えられたことが、生き生きと私たちの信仰に響いて来るではありませんか。喜びも祈りも感謝も、イエスさまを抜きにしてではないのです。<喜ぶ(カイロー)>と<感謝(ユーカリストー)>には<恵み(カリス)>が含まれており、喜びも感謝もイエスさまの恵みによるのだと聞こえてきます。イエスさまを見つめ、イエスさまに結びついて、初めて喜びも感謝も生まれてくるのです。そんな喜びや感謝があるようにとパウロは願ったのです。命令形になっていますが、無理にでも作り笑顔で喜びなさい、感謝しなさいと言っているのではない、イエスさまを信じた者たちの中に、信仰の故に溢れ出てくる喜びや感謝を言っているのです。テサロニケ教会の人たちが、今現在直面している苦難と決して無関係ではありません。苦難の中だからこそ、「喜び」も「感謝」も必要だったのです。

 そしてパウロは、その恵みはイエスさまご自身だと意識しているのです。「恵み」は、イエスさまが持っておられる一部ではなく、全ご人格と聞かなければなりません。すると、十字架のイエスさまが見えてくるでしょう。恵みは十字架に溢れているのです。何回も繰り返してきたことですが、「罪ある者はわたしの前に立つことはできない」といわれる聖なるお方の前で、イエスさまは私たちの罪を背負って十字架に死んでくださいました。そこに罪の赦しがあります。十字架のイエスさまは、罪ゆえに喜びや感謝から遠く離れている者に、これ以上はない恵みとなってくださったのです。

 そうしますと、この命令形での勧めは、私たちの日々の生活の中で行なっていく信仰の勧めと受け止めることができます。喜びと感謝の真ん中にある「絶えず祈りなさい」は、信仰告白の勧めに他なりません。きっと、パウロの喜びと感謝と祈りも、彼自身の信仰告白だったのでしょう。十字架のイエスさまを見つめながら懸命に信仰者の道を歩んでいるパウロ、私たちも彼に倣いたいものです。


V 十字架の主に

 「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい」(19−22) 「消してはならない」と言われる「御霊」、何を意味しているのでしょうか。もちろん聖霊なる神さまのことですが、そう聞くには、余りに熱心過ぎる祈りや狂信的な聖霊信仰が生まれてきました。パウロの文脈を全く無視していると言っていいでしょう。聖霊なる神さまは、私たちの中にイエスさまを見つめる思いを燃やし続けてくださっています。その思いを消してはならないと聞くのが自然です。また、私たちの中にある信仰の炎を霊(定冠詞つき)と表現したのかも知れないと想像いたします。パウロの意識は十字架のイエスさまを片時も離れていないのです。

 「預言をないがしろにしてはならない」 「御霊を……」も含めて、テサロニケ教会にはそう勧めなければならない人たちがいたのでしょうか。旧約聖書だけではなく、福音書や手紙になっている使徒たち(とその影響下にある人たち、たとえばマルコやルカ)の文書も含まれていると聞いていいでしょう。或いは、まだ文書化されていない教えも数えているのかも知れません。いづれにしても、「神さまのことば」がイエスさまを信じる信仰者たちに受け継がれていく初代教会成立の過程が描かれています。その聖書信仰の姿勢は、現代だけではなく、彼らの時代にも危機にさらされていたのでしょう。パウロの危機意識が浮かび上がってきます。でも、時には細々とだったのかも知れませんが、その聖書信仰の流れは一度も失われることなく、私たちのところまで続いてきました。イエスさまを見つめることと神さまのみことばの継承は、現代の私たちの務めであると聞かなければなりません。宗教改革者たちの旗印、「ソーラ・フィデ(ただ信仰のみ)」、「ソーラ・スクリプトゥス(ただ聖書のみ)」は現代の私たちにこそ重要な信仰姿勢と思うのですが。

 「〜してはならない」と二つのことが並びました。ともすれば失いかねないことだったのでしょう。本当に良いものを見分ける知恵に欠けるとき、大切なものを失うことになります。神さまのみことばに基づいた知恵、聖霊なる神さまが働いてイエスさまに結ばれる信仰、そのいづれもが敵対者の攻撃にさらされています。「悪はどんな悪でも避けなさい」とあるのは、イエスさまを信じる私たちに敵対する者が、「食い尽くす獲物を求めて歩き回っている」(Tペテロ5:8)からでしょう。心して聞いていかなければなりません。終末の、イエスさまにお会いする時を間近に控え、更にその力が強くなると予想されます。生地のままの私たちは、決してその力に対抗することはできません。ただ十字架の救い主に頼りつつ、迎える難関をクリアしていこうではありませんか。