16 平和の君を

                                    Tテサロニケ書 5:12−15
                                  イザヤ書    9:6−7 

T みことばに仕える

 先週見たところに、「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」(5:6) とありました。「現在すでに始まっている終末」が、実は、暗やみの時代だとパウロの脳裏にあっての言い方と思われます。確かに、初期のクリスチャンたちは間もなく、ユダヤ人のいじめなどかすんでしまうほどの、ネロ皇帝の迫害に始まる激動の時代を迎えることになります。それは、パウロにとっても10数年先のことでしたが、彼は、「目をさまして」、来るであろう激動の時代を見つめていたのでしょう。「目をさまして」とは、その暗やみを見極める目かも知れません。そう聞いてきますと、この現代も、見極めねばならないたくさんの事象があることに気付かされます。「暗やみ」は現代を象徴する事象と受け止めて間違いないでしょう。そうしますと、これから取り上げようとする具体的な勧め「慎み深くしていましょう」は、現代に最も欠けていることであると、使徒パウロから現代の私たちへのメッセージと聞いていきたいのです。

 「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい(新共同訳・重んじなさい)。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい」(12−13) 模範的な教会として知られるテサロニケ教会のイメージだけでこの手紙を読むと見えてきませんが、この教会にはいくつもの問題がありました。その一つに、教会の人たちと指導者たちとの間に、何らかの葛藤があったようです。教会の人たちがパウロを慕い、その指導ぶりと現在の指導者たちのそれとを比較して、或いは、自分の家を集会のために提供していた富裕階級に属する指導者たちと、奴隷からなる多数の貧しい教会の人たちとの対立か、いろいろと想像しますが、指導者たちが重んじられていなかったことは確かでしょう。パウロはそんな教会の人たちに、「主にあって働く指導者たち」を「その務め」の故に尊敬し、重んじるように勧めます。価値観が違うのです。主の前に富むとか貧しいとかの区別はなく、ただ主に召し出されたことだけが問われるのです。現代(いつの時代)も、伝道者たちは主に招かれて献身しました。その人たちをみことばに仕える者として尊敬し、指導者たちもみことばのために主に仕え、教会に奉仕するのです。その点を見落としてはなりません。


U 信仰者の生き方を

 14−15節には、指導者たちへの勧めが語られます。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれにも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう努めなさい」 「お互いの間で」とありますが、テサロニケ教会では、指導者間にも反目や争いがあったのでしょう。ピリピ書など他の書簡にも取り上げられ、現代の教会にも多く見られることですが、教会内の問題の多くが牧師と役員といった指導者たちの間に起こることを、特に気をつけておかなければなりません。

 ここに語られるいくつもの中で、「気ままな者を戒め」は、私自身聞いてゆかなければならないことでしょう。他の人たち(伝道者ばかりではなく)も同じと、自分を慰めてはみるのですが…… でも、励ますことも、助けることも、寛容も、善を行なうことも指導者たちだけのことではありません。「気ままな者を戒め」は、あなたは「気ままであってはならない」と聞こえてきます。戒めるのは「自分を」です。これを現代風に言うとどうなるのかなと考えてみました。恐らく、もっとたくさんの言葉が必要になるでしょう。「気が弱く落ち込んでいる者を励まさなければならない」、「社会的な弱者を助けなければならない」、「傷つけ合ってはならない」、「困っている人には親身になってお世話をしなければならない」、「親切にすべし」、などなどですが、このパウロの勧めを、そんな風に聞くことは出来ないでしょう。これは律法ではないのです。イエスさまを信じる者たちの、信仰の生き方が勧められているのです。


V 平和の君を

 もう一つのことを聞きたいと思います。13節と14節の間に、「お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。12−13節が教会の人たちへの薦め、そして14節から指導者たちへの勧めなのですが、教会の人たちと指導者たちとの間にあって欲しいとパウロが願ったものでしょう。

 しかし、なぜ「平和」なのでしょうか。愛も赦しも祈りもなければならないのではと思うのですが……。パウロになったつもりで考えてみました。きっと、暗やみの時代を支配するのは、争いであり、欲望でしょう。そして……、ちょっと息抜きにと見ていたテレビで「タイタニック」をやっていました。そのワンシーンですが、沈みゆくタイタニック号の中で、主演女優が通りかかった船のボーイに助けを求めます。彼女は、水が入って来た客室に身動き出来ない状態で閉じこめられた恋人を助けたいのです。しかしこのボーイは、「大丈夫です。こちらに来てください」とただ彼女の手を引いて上に連れて行こうとします。求めているのはそんなことではないのです。彼女がどんなに訴えても聞こえていません。平和のない状態とは、そんな状態ではないのかと感じました。複雑な人間社会の現代、私たちはたくさんの訴えを持っていますが、その訴えが誰にも聞かれない時に、聞いてもらえない人も聞かない人も共に平和を失っていると言っていいのではないでしょうか。誰もが自分のことだけで精一杯で、他の人を見る余裕がないのです。自分流にしか物事を考えず、つい人と衝突し、争いになる。戦争もそんなところから始まるのでしょう。

 テサロニケ教会にもそんな緊張感が充満していました。「認めない」、「重んじない」、「尊敬しない」といった状況は、そのような中で生まれていくのです。それは、教会の人たちが指導者たちを認めないというだけではなく、信徒対信徒、人対人という中で絶えず起こってくる問題と思われます。自分以外の人を認めない。そして、その延長上にイエスさまを認めない不信仰が浮かび上がってきますし、何よりもそれが「認めない」ことの中心であると知らなければなりません。そしてそれは、現代という私たちの時代を大きく狂わせている問題の中心ではないでしょうか。ちょっと一呼吸置いて、自分以外の人、何よりも救い主イエスさまを見つめる余裕を持ちたいものです。「平和」という言い方の中に、パウロは、愛も赦しもあると言っているようです。これが彼の中心メッセージであると聞こえてきます。この「平和」は人と人を結ぶ強い絆、イエスさまご自身を指しているのではないでしょうか。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれる」(マタイ5:9 ご自分を指していると聞いていいでしょう)というイエスさまのことばを思い出すまでもなく、パウロは、「平和の君」(イザヤ)としておいでになった、そのお方を覚えて欲しいと願っているのです。