Tテサロニケ書 5:6−11
イザヤ書   35:8−10

 15 主の愛に生きる者と


 
                                                        
T 一線を画しつつ

 先週、私たちは光の子、昼の子どもであって、「夜や暗やみの者ではありません」(5:5)と聞きました。もともと神さまを知らず、罪と欲望の渦巻く世界にたっぷり漬かった者でしたが、主のあわれみによって暗やみの世界から光輝く神さまの国に招き出されたのです。そして、この世で苦闘しながらも、イエスさまにお会いできる希望に生きる者とされました。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」(5:6)その希望の終末が、私たちの今現在の歩みから始まるのです。

 第一にパウロは、注意深く、「現在」とは、この世との相対的理解であると言っているようです。<ほかの人々>とは、依然、欲望渦巻くこの世に属する人たちのことですが、この人たちのことが取り上げられたのは、意図あってのことと思われます。ここに語られる<昼に属する>者たちの生き方は、「眠っていないで、目を覚まし、慎み深くしていましょう」(新共同訳)とあるように、恐らく、ローマ貴族の生き方を対極の反面教師にしているのでしょう。「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです」とはローマ貴族の典型的怠惰な生き方を指しています。それはテサロニケの人たちには珍しいものではありませんでした。問題意識を持たなければ、自然そんな生き方を当り前にしてしまうのです。しかし、昼に属する者はそのような生き方を志してはならないと、パウロの第一の勧めです。ここにパウロの「キリスト者の倫理」に対する一つの方向が見られるようです。今現在の生き方の第一に、他の人たちとは区別された生き方が勧められます。全く別の価値観に生きるのではなく、同じ世界の中で、しかし、そうしてはならないと言われているのです。倫理などというものは、他との比較でしか成立しないという意識あってのことでしょうか。イエスさまを信じる者たちの生き方は、天国の市民として、他とは一線を画しながらも、この世に留まり続けなければならないとのパウロのメッセージが浮かび上がってくるようです。パウロの真意は、この世とは一線を画さなければならないというところが大切にされているようですが。


U 信仰の闘いを

 次にパウロは、クリスチャンの「現在」は、この世とは全く異なる絶対的価値観に基づくものであると、その基本姿勢に言及していきます。「この世とは一線を画する」生き方に踏み込んでいくのです。

 「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」(8) 「信仰と愛を胸当てとして」、「救いのかぶととして」と聞きますと、すぐにエペソ書の有名なところを思い出しますが、そこにはこうあります。「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾をとりなさい。それによって悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」(6:14−17) これはまさに戦いの武具ではありませんか。テサロニケ書を書き送るときに芽生えた意識が、12−13年後のエペソ書で一層鮮明になっていると感じられますが、それは、間もなく始まろうとするネロ皇帝の迫害など、教会を取り巻く情勢が一段と厳しくなっていたためでしょうか。先に触れた「この世の価値観を共有しつつ」ではなく、あくまでこの世の生き方とは対立し闘っていくのだという意識が感じられます。イエスさまを信じる信仰は、この世との闘いであるとするパウロの意識は、彼の書簡の随所に見られます。迫害の時代に生きた先輩たちばかりではなく、現代の私たちもその基本的姿勢は変わってはならないと思います。私たちの闘う相手は、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)という存在です。彼らは、何かの機会を捉えて、必ずや牙をむきだしてきます。2000年前といささかの変わりもありません。イエスさまにお会いする時が近づく来るにつれ、彼らは更に強力な力を行使してくるでしょう。

 その時に、私たちがイエスさまを信じる信仰に立ち、十字架の愛に生かされつつ、自らも愛の人となっているかどうかは、闘いの武具を身にまとっているかと問われるところです。このところで少し不思議な気がするのですが、ここに言われる闘いの武具は身を守るためのものであり、エペソ書に言われる攻撃用の武具が何も取り上げられてはいません。攻撃を仕掛けてくるのは、いつもこの世のほうからなのかも知れませんね。


V 主の愛に生きる者と

 それでは、「信仰と愛の胸当てを着け、救いのかぶとをかぶる」とは、具体的にどういうことなのでしょう。ただ美しい文学的表現ではないのです。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」(9:1−10) 「目ざめていても、眠っていても」とあります。先に「ほかの人々のように眠っていないで、目をさましていましょう」(6)と同じことばですが、ここではイエスさまにお会いするときに、生きていても死んでいてもという意味で使われているようです。神さまはテサロニケ教会の人たちだけではなく、現代の私たちにまで配慮くださっていると聞かなければなりません。私たちのそばには神さまがついていてくださるのです。それこそ、私たちの守りの武具です。「イエス・キリストにあって救いを得るように」とありますが、これは、イエスさまが私たちのために十字架に死んでくださったことを指しています。これが私たちの第一の武具です。

 十字架を、教会堂の先端にそびえるシンボルくらいにしか見ない現代、しばしば、クリスチャンも、宗教として、キリスト教の教理としてしか受け止めていないケースがあるようです。所属する教会に不満があって相談に来る方たちとお会いすることがありますが、愛のことも日常の信仰者としての生活にも、その方に十字架のイエスさまが感じられないことがよくありました。十字架におかかりになったイエスさまを通して見る目、聞く目が欠如しているのです。出てくるのは人間的な基準での牧師批判であり、兄弟姉妹批判です。そこには愛も赦しもなく、自分に問題があると断じて認めようとしないあり方です。自分は悪くないと主張してやまない、悲しいことです。イエスさまがなぜ「あなたのために十字架におかかりになったのか」、少しでもそのことに心が向くなら、愛も赦しも、何よりも、自分の問題が見えてくるでしょう。これは本当は私自身のことでしょう。祈るだけしかないのに、正しさに立った主張を繰り返している自分に、何度もショックを受けました!

 十字架の上に立つ、これは極めて力ある生き方です。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(11)という生き方も、十字架のイエスさまがいっしょにいてくださって、はじめて聞くことの出来る勧めではないでしょうか。この終末の混乱期を迎えた時代に、目をさまして十字架の愛に生きるように願おうではありませんか。