Tテサロニケ書 5:1−5
イザヤ書    55:6−7

 14 光の主に招かれて


 
                                                        
T 主にお会いする

 パウロは4:13節から終末の希望について語り始めました。その希望は、再臨のイエスさまにお会いして、「いつまでも主とともにいることになります」(4:17)というものでした。きっと、イエスさまが主である「神さまの御国で、いつまでも……」なのでしょう。ここで注意して頂きたいのですが、この宣言の中に、<イエスさまを信じた私たちが>という含みがあることを忘れてはなりません。5章はその終末の希望に向けて、<信じた私たち>がどのような歩みを志していくのか、「現在」を大切にしようではないかというメッセージが聞こえてきます。イエスさまを信じた者たちは、何故現在を大切にしなければならないのでしょうか。その最初、5:1−5からですが、論点の中心は「イエスさま再臨の時」についてです。

 「兄弟たち。その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」(1・新共同訳) 時と時期というのは、ギリシャ語の用法から「瞬間と期間」であろうと考える人たちが多いようですが(ニュー・イングリッシュ・バイブルは「dateとtime」、口語訳は「時期と場合」)、もっと簡単に、イエスさま再臨のあらゆる(時や状況をも含めた)ことを強調するための言い方をと聞いていいのではと思われます(参考・使徒1:7)。当時のクリスチャンたちは、イエスさまの再臨についていろいろと言い合っていたのでしょう。その中には、「いつ?」とか、「どうのような時代に?」といった疑問があったことと思われます。現代の私たちも同じでしょう。そんなもろもろの疑問を全部ひっくるめて、「時と時期」と言い表したのであって、パウロの耳には、そんないろいろな声が、現代の私たちの声をも含めて、届いていたのでしょう。しかし私たちはそんなことを知らなくてもいいのです。大切なのは「時」ではなく、イエスさまが近い将来必ずおいでになって、私たちにお会いくださるということなのですから。


U 忍び寄る終末に

 その「時」をパウロは、「主の日は夜中の盗人のように来る」(2)と宣言しますが、「盗人のように」という言い方は、後にヨハネが黙示録に、栄光の座にお着きになったイエスさまのことばとして書き留めました(3:3、16:15)。イエスさまは十字架におかかりになる直前に終末のことを弟子たちに教えられ、「その日は思いがけない時に来る」と言われましたが、そのほかにも機会を見つけては「盗人のように」と教えていたのかも知れません。「(そのことは)あなたがたもよく承知している」(2)とありますので、当時のクリスチャンたちはそのように主の日を心待ちにしていたのでしょう。今更ながらキリスト教の文化継承は、初期教会の人たちの意識がそうであったように、イエスさまのことばに基づいていかなければと知らされます。パウロ神学などと言われ、彼独自の神学が形成されたように見られますが、その土台はイエスさまの教えにあると覚えたいものです。

 ここでパウロが第一に取り上げたことは、当時の人たちも感じているローマ社会の不安定さや、また、歴史上何回も訪れた戦争など危機的な状況にも当てはまるのでしょうが、現代のことを考えますと、全くパウロの言う状況そのものと感じられます。「人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」(3) ほんの少し前まで日本は、「平和だ。安全だ」と繁栄をむさぼっていました。それがどうでしょう。あっという間に銀行破綻など経済基盤ががたがたになり、有事法案なども成立して、平和と繁栄が泡のように消えかかっています。他国の武力攻撃があるかどうかは私には判断できませんが、平和と繁栄ではない方向に進み始めたことは確かでしょう。パウロの言う終末の苦しみが、「やがて滅びが襲いかかってくる」などと遠い将来のことではなくなってしまったと実感するのは、私だけではないはずです。パウロが語っていることは、単なる危機的状況ではなく、終末という前代未聞の出来事であり、今まさに、その終末の時代に差し掛かっているのだと聞かなければなりません。

 しかしパウロは、一般的な解説として「終末がやって来る」と言ったのではなく、それは、激しい苦難を伴う破滅として容赦なく襲いかかるという宣言と思われます。そして、この人々がどのような人たちなのかを考えてみたいのです。平和も安全もないのに、「平和だ。安全だ」と言っている人たちです。恐らく、自分の繁栄しか見えない人たちのことでしょう。新共同訳は意識的に「彼ら」を省いています。従来、含まれないと考えられてきたクリスチャンたちが、もし、そんな生き方しか志していなければ、この人々に含まれることを想定してのことではないかと思うのです。少なくとも私自身、この人たちに含まれ得るという警告がここから聞こえてきます。


V 光の主に招かれて

 「しかし、兄弟たち」(4)とパウロの呼びかけがあります。 終末の破滅に向かう可能性がある者として、パウロから「兄弟たちよ」と呼びかけられるその幸いを大切にしていきたいものです。パウロのこの呼びかけは、イエスさまを信じる同じ信仰の者たちが互いに呼び合うもので、初代教会から現代に至るまで信仰者たちの間で用いられてきた麗しい伝統でしょう。その中に私たちも数えられている。いや、そこに数えられるなら、私たちは「あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません」(4−5)と宣言されるのです。その宣言をこそ聞いていきたいではありませんか。昔、アルバイトで徹夜仕事をしていた時のことですが、新宿の歌舞伎町で真夜中の2時とか3時に身動き出来ないほどの雑踏を経験したことがあります。昼間の雑踏よりずっと多いんです。ところが驚いたことに、その人たちは夜が明けると同時にどこかにいなくなってしまうのです。仕事の人たちもいたのでしょうが、大半は夜遊びと思われます。彼らは夜の暗やみを好んでいたのです。そこにうごめく者はさらに暗やみを好むようになっていくと感じたものです。そして、現代をそんな暗やみの時代と捉えるなら、この時代は恐らくもっともっと暗く悪くなっていくでしょう。悪いことを企む者たちは暗やみの中で企むのです。終末の破滅の時は、そんな暗やみを好む者たちが招いていると言ってもいいのではないでしょうか。そのスピードが加速している現代です。

 そんな中にあって、「あなたがたは光の子、昼の子である」という宣言がどれほど光栄なものであるか考えてみなければなりません。パウロの脳裏には「わたしは世の光である」と言われたイエスさまのことばが刻み込まれていたのでしょう。光は周りを明るく照らすものですが、同時に、光源体自身を輝かすものでもあります。むしろ、その輝きが周りを照らすと考えたほうが当たっているでしょう。私たちは、その輝きをイエスさまと共有するように招かれているのです。神さまの栄光と考えていいでしょう。天地の創造者、全知全能のお方が持っておられる栄光を、暗やみでもがいていた者が頂く。夜の新宿で孤独感に打ちのめされていた者が、「そうではない。おまえは輝く者となるのだ」と聞いたときの喜びをぜひとも共有して頂きたいと願います。その輝きをどれほど輝かせてきたかと問われますと心許ないのですが、少なくとも私の信じる主の輝きはいささかも衰えてはいないのです。そんな主の輝き、その救いが、絶望と暗やみが蔓延するこの現代にこそ必要ではないでしょうか。

 主にお会いする日を、暗やみにあえぐ絶望の者として迎えるのか、或いは、光の子として喜びと希望のうちに迎えるのか、その時が近づいています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」(イザヤ55:6)この呼びかけに応えたいものです。