Tテサロニケ書 4:13−18
イザヤ書   66:18

 13 いつまでも主とともに


 
                                                        
T イエスさまを信じる信仰の中で

 パウロは4:1−12で信仰と愛について語ってきましたが、13節から終末の希望について語り始めます。その中心は、イエスさまにお会いできるというものですが、そればかりでなく、その希望を見据えながら、今現在の信仰者の歩みをどのように整えていったらいいのか、「現在」のことも希望の中に含めて教えようとしています。その意味で、この希望は5章の終わりまで続きます。テサロニケ滞在期間が短かったパウロは、誕生したばかりの教会に多くを教える時間がなく、特に終末に関する教えが不足していると感じたのでしょう。その終末をここで集中的に取り上げています。

 初めにパウロは、「空中携挙」と呼ばれるイエスさま再臨の極めて具体的な出来事を取り上げます。このことは他の手紙には全く触れていませんので、この記事のソースも内容もここから判断する以外になく、ことは終末に関する非常に特殊な描写ですので難解なところですが、何とか理解していきたいと思います。まず最初に、ちょっと蛇足ですが、ここは科学的思惟を最高とする現代人には荒唐無稽な「空想」と感じられるかも知れませんが、これは、終末に必ず起こる出来事のパウロからの証言と聞いて頂きたいのです。13節から、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の人々のように悲しみに沈むことのないためです」 「眠った人々」、テサロニケ教会には、イエスさまを信じながら召された人たちがいたのでしょう。もしかしたら、迫害のためにいのちを落とした人たちかも知れません。テサロニケ教会の人たちが直面している苦難にパウロは何度か言及していますが(1:6、2:14、3:3−4)、それはいのちを落とす人もいたほどの激しい迫害によるものと聞いていいでしょう。ですから彼らは、亡くなった人たちのことを思い出して悲しんでいるだけでなく、今現在、自分たちのいのちの危険を感じているのです。パウロがそれほどの状況下にあることを念頭においてこの手紙を書き送ったと考えるなら、この書簡が生ぬるいキリスト教倫理の勧めなどではなく、クリスチャンはイエスさまを信じる信仰の中で生きるんだよという強烈なメッセージと聞こえてきます。現代の私たちはそんなせっぱ詰まった状況下にはありませんが、イエスさまを信じる信仰は、いのちに関わるものだと緊張をもってこのメッセージを聞いていきたいのです。


U 新しいいのちに

 次に、その「いのち」は、イエスさまのよみがえりに連なるというパウロの証言です。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(14・新共同訳) 近年、イエスさまの出来事が歴史上の事実かどうかは関係なく、弟子たちが信じたその信仰の上にキリスト教会が立てられたとする神学が流行しました。「信じる」という日本語には、そんな事実無根の迷信といったニューアンスがあるようですが、聖書が語るイエスさまを信じる信仰は、「事実」が土台になっているのです。テサロニケ教会の人たちは、パウロがよみがえりのイエスさまにお会いして伝道者に召し出されたと聞いていましたから、初めからよみがえりのイエスさまを見つめていたのでしょう。よみがえりには、イエスさまが十字架に死なれたという証言と、十字架に死なれたイエスさまが新しいいのちの主になられたという二つの意味があるのです。イエスさまの救いは、十字架とよみがえりをもって完結します。私たちは、十字架の贖罪とそこにある新しいいのちの保証を、「イエスさまの救い」と聞き、その救いを私たちへの招きであると受け止めます。テサロニケ教会の人たちの信仰もその原点に立っていたのでしょう。

 しかし、その新しいいのちは何を指しているのでしょう。キリスト教の歴史には、精神的覚醒とか新しい生き方とか、多様な希望が語られてきました。その多くは、どこか遠くの見知らぬ天国で生きるという抽象的な「いのち」でした。しかし、パウロがここで伝えようとするメッセージは、「イエスにあって眠った人たちをイエスと一緒に導き出す」というものです。それは、実際に、新しいいのちに生きる希望なのです。死んでそのまま朽ち、滅びてしまうのではありません。イエスさまのよみがえりがその通りでした。そのよみがえりに連なっていくのです。信仰者の希望はそこにあります。この14節を新共同訳で見たのは、新改訳が、「イエスといっしょに連れて来られるはずです」と推定の訳し方をしているためです。ここは推定ではなく、よみがえりのイエスさまといっしょに生きることが確定していると聞かなければなりません。


V いつまでも主とともに

 それでは、難解な15節以下に入りましょう。「空中携挙」と呼ばれる終末の一こまです。パウロの証言は、まず、イエスさまにお会いするのが、「眠った人」、「主が来られるまで生き残っている人」の順番であると強調されます。なぜそれが強調されるのでしょう。順番通りだからでしょうが、もしかするとその順番は、迫害の中で殉教した人への慰めなのかも知れません。パウロがそんな慰めを強調した背景には、迫害と殉教が決して過去のことではなく、イエスさまを信じた人たちは、この世から受け入れられることはないとの認識があるからでしょう。迫害者たちは、ユダヤ人からローマ人に、身近なところでは秀吉や家康に、そして昭和初期の軍部など時の為政者に変わっていきました。しかし、現代に至るまで迫害と殉教は続いているのです。そして、時には、キリスト教会そのものが自分たちと同じではない信仰者への迫害者に変身しているのです。単純にイエスさまを救い主と信じる者たちへの迫害は、終末に向けてさらに大きくふくらんでくるのではないかと感じられます。そんな中で、「眠った人」に私やあなたがならないとは限らないのです。この慰めはパウロの慰めであり、イエスさまの慰めですが、それは私たちに向けられていると聞こえてきます。

 「主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(16)、「雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです」(17)とある情景については、その通りのことが起こるとだけ覚えておきましょう。それ以上のことは分からないのですから。しかしもう、この出来事がどのようなありさまなのかその詳細が分からなくても、私たちの救いが達成されるに一向に差し支えないとお分かりでしょう。パウロは、すでに「眠った」人たちのことばかりではなく、今、生きている人たちにとっても、新しいいのちの希望があると証言しているのです。ここにパウロが、「主のみことばのとおりに言います」とある、その通りの出来事が私たちのために実際に起こるのです。それを私たちは、「みことばのとおりに」と受け止める、それだけで十分ではないでしょうか。恐らくパウロは、何回か彼に現われたイエスさまからそのことを聞きました。それはパウロにとってもあまりにも生身の人間の理解を超えることでしたから、以後、彼はそれを手紙には取り上げず、封印してしまったのでしょう。救いの情景がどのようであれ、イエスさまを信じる者たちがイエスさまにお会いできることは間違いないことですから。その場所が空中であれ、オリーブ山であれ、或いは教会や自宅であれ、そんなことが重要なのではない。イエスさまにお会いして、「いつまでも主とともにいることになります」(17)という永遠の喜びが待ち受けているとの証言に耳を傾けることのほうがずっと大切でしょう。実は、今現在も一緒にいてくださるイエスさまですが、残念ながらそのお顔を拝することができません。イエスさまと顔と顔とを合わせて住まうようになる、そんな終末の希望を見据えての信仰の歩みでありたいと願います。