テサロニケ書 4:9−12
レビ記    19:13−18

 12 愛を育てるために

                                                         
T 苦難と向き合う

 この手紙残りの4−5章は、パウロの祈りに始まる信仰の具体的な勧めであると聞きましたが、その一番目は、「あなたがたが聖くなることです」(4:3)です。序に当たる1−8節に不品行の問題が取り上げられているのは、それが神さまの聖を引き継ぐ最も大きな障害になると判断されたからでしょう。信仰が具体化されていく時、その最大の焦点は愛です。イエスさまを信じる信仰は、愛のうちに具体化されていくのです。そう見るなら、不品行は愛の対極にあると考えていいでしょう。不品行は私たちの人格と信仰とを損なう行為と見てゆかなければなりません。そこでパウロが次に取り上げるのは「愛」の問題です。

 「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」(9) この言い方はパウロ独特のアイロニー(皮肉・反語)ではなく、本心からのことばのようです。テモテの報告からパウロは、彼らの愛が諸教会の模範に足るものであると聞きました。パウロのもとには各地から情報がたくさん寄せられており、その中にテサロニケ教会の人たちの愛を称賛する情報も含まれていたようです。その愛を彼らがどこから学んだのか、「神さまから教えられた」とあるだけでよく分かりませんが、迫害という非常事態の中で、教会内に堅い絆が育てられたのではと想像します。迫害という苦難自体が神さまの方法だったのかも知れません。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうしてあなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです」(1:6−7)とあります。

 とすれば、私たちの苦難に対する視点を変更する必要があるようです。しばしば私たちは、苦しみを好ましくないものと受け止め、苦難は「悪いことをした懲罰」と考える傾向にあります。そうではないのです。何回も引用しますが、ピリピ書にはこうあって、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(1:29) 苦しみが愛を育てていくのだと聞こえてきます。但し、そのように苦難と向き合わなければならないことは言うまでもありません。


U 十字架の主を

 そのように聞いてきますと、「どうか、さらにますますそうであってください」(10)というパウロの願いが、苦難とどう向き合うのかという信仰の本質に関わっていると教えられます。愛には常に苦しみがともなう、それは愛の最も根本的な部分であると言えそうです。失恋したら、世界中にこんな不幸な者はないと苦しむでしょう。愛する人が海外に出張したら、サーズは大丈夫だろうか心配になります。小学生がガソリンをかけられて火だるまにされたと聞くと、我が子のことが心配になってきます。誰かを愛するなら、あれこれと心配の種は尽きません。愛というものは、苦しみと背中合わせの面を持っているようです。それも愛が苦悩を伴うと物語っているのでしょうが、もっともっと根本的な問題があるようです。

 ところで、「ますますそうしなさい」と言われますが、愛は努力して育てていくものではありません。愛したことのある人はお分かりでしょうが、努力しても愛ある人になったとは言い切れないのです。むしろ、「私は愛の人である」と自信を持つこと自体、その人の愛に疑問が残るでしょう。本当の愛は、愛の足りなさを自覚させられるものではないでしょうか。そして、そこに苦悩が生まれるのです。その苦悩は、愛の最も中心の部分ではないかと思います。その中心部分で苦悩したことのある人なら、愛が自分自身に帰属するものとは考えられなくなっていくでしょう。

 しかし、愛がない嘆いても、愛することに絶望してはいけません。なぜなら、私たちのすぐそばには、苦難と向き合ったお方、十字架に私たちの罪を負って苦しんでくださったイエスさまがおられるからです。主は、ご自分の義務感や責任感(父なる神さまがお決めになったという義務感と、それがご自分の仕事だからという責任)で十字架を選ばれたのではありません。私たちを愛した愛が十字架の一番の動機でした。その愛を私たちに注いでくださったから、私たちもその愛を受け継いでいくのです。その十字架の(愛の)イエスさまを見つめることが、私たちの信仰なのでしょう。苦難と向き合うとは、信仰のことではないかと思うのです。「ますますそうであってください」とは、そのような信仰に立ちつつ、イエスさまの十字架を見つめる者であってくださいというパウロのメッセージと聞こえてきます。


V 愛を育てるために

 ここにパウロのもう一つのメッセージが語られています。11−12節です。「また、私が命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです」

 パウロはなぜこんなことを書き送ったのでしょう。教会に、働くことを止めてしまった人たちがいたからです。聖書学者たちは、彼らが終末が間近いと聞いて、そのことばかりに目が向いてしまったためではないかと推測していますが、ここには、当時の社会的な問題点も浮かび上がっているようです。きっと、教会には貧しい人たちが多かったのでしょう。解放奴隷など主人を持たない人たちもいたのではないかと想像します。テサロニケはかなり大きな商業都市でしたから、その気になれば仕事口は結構あったと思うのですが、一人前の市民として暮らしを安定させていけるものではなかったのでしょう。日雇いをして食いつないでも、その賃金はたかが知れています。社会の底辺にいる人たちに希望はなく、彼らが教会にやって来たのは、教会が彼らに食べ物を用意していたからではないかと想像します。エルサレム教会がそうでした。そして、教会は現代に至るまで、それを尊い伝統と受け継いできました。その彼らが終末の希望を聞いたのです。その希望に夢中になる気持ちが痛いように伝わってきます。

 「自分の手で働きなさい」とか、「乏しいことがない」とあるのは、教会がそのような共同体だったからではないかと思われます。何から何までということではなかったでしょうが、少なくとも自分たちはイエスさまを信じる信仰共同体であるという意識を持っていたのでしょう。それがテサロニケ教会で、愛の共同体という意識を強めたのではないかと想像します。その共同体の中に、労働することを止めてしまった人たちがいたのです。乏しくなるのはその人たちだけではありません。私個人の考えですが、働く人もいていいし、ボーッとしている人もいていい。教会というところはそんな不平等があっていいと思っています。その不平等が神さまの前で行われるなら。しかし、時には働く人たちの中から不満が生まれてきます。そして、その不満が信仰共同体の愛にひび割れを起こしかねないのです。パウロはそれを心配したのでしょう。教会にはやもめや母子家庭といった援助を必要としている人たちがおり、その人たちを支える働きは教会に課せられた重要課題でした。「落ち着いた生活をし」とあるのは、働ける人たちが自分の食い扶持を自分で得るだけではなく、そのような人たちへの配慮を忘れてはならないという含みを感じさせます。これが信仰と愛の具体的な在り方ではないでしょうか。自分のことよりも、他の人たちのことを優先させる。それが愛の中心主題ではないでしょうか。イエスさまはそのために十字架におかかりになったのですから。