Tテサロニケ書 4:1−8
ホセア書   5:15−6:3

 11 主を喜ばせるために

                                                         
T 罪に敏感に

 「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します」(1) 先週、イエスさまを信じる信仰は、極めて具体的なものだと聞いてきました。それがパウロの祈りになったのです。その祈りがきっかけになったのでしょうか、パウロは更に具体的な信仰者の在り方について言及し始めます。テサロニケ書はここからが真骨頂と言えるのかも知れません。「終わりに、兄弟たちよ」と、この手紙の終わりまで続くのです。その始まりの部分をみていきたいと思います。

 マケドニヤにばかりではなく、もっと遠くに建てられた教会にまで聞こえていた彼らの信仰は、間違いなくテモテが報告したように模範的なものだったでしょう。しかし、何もかもが模範的ではなかったようです。この4−5章で、パウロはその足りないところを指摘しようとします。「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください」(1) 「事実いまあなたがたが歩んでいるように、……」は、パウロのリップサービスなのでしょうか。ここに取り上げられる問題は性的不品行ということですが、それは教会内に実際に起こっていた問題のようです。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、またこのようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです」(2−6) 当時のローマ世界では、男女間の性的乱れは日常の食事のちょっとした変化くらいにしか考えられていませんでした。ローマ人の生き方は一時の快楽を求めるにあると言っていいかと思います。そこに建てられた教会の人たちも、自然、その価値観の中で生きていたわけですから、クリスチャンになって、パウロに相当厳しく教えられていたにもかかわらず、なかなかその価値観を捨てることが出来なかったのでしょう。

 それと同じようなことが今の私たちにも当て嵌まります。現代という時代、マスメデアに踊らされて、こギャルたちの援助交際など性的不純交遊がどんどん広がっています。そんな価値観が教会にも入り込んでいないとは言えないようです。アメリカのカトリック教会で問題になっている、神父たちが少年をもて遊んだ事件はその一例と言えるでしょう。そんなことが実際に起こらないとしても、問題は、その価値観に慣らされていくなら、私たちも同罪であるということです。罪ということにもっともっと敏感でなければと強く反省させられます。


U 神さまの聖に加えられて

 そんな、誰もが罪ということに鈍感になっていく中で、パウロが教えるクリスチャンの価値観は、「あなたがたが聖くなることです」というものでした。この「聖く」が「不品行」と対極にあることは間違いないことです。私たちが聖くあるために、不品行を避けなければならないことはいうまでもありません。しかし、このことはしばしば誤解を招くもととなってきました。それは、この「聖」が直線的に「清」という倫理的正しさと結びつけられてきたことです。日本にプロテスタント信仰を伝えた欧米の宣教師たちは、ピューリタニズムという倫理観を持ち込んできました。そして彼らは、そこに禁欲的な修道院的倫理観(聖書的であるとは言えない)があることに気がついていないのです。彼らが気がつかないのですから、欧米人好きの日本人はなおさらそれをキリスト教だと信じて疑わないのです。教会が未だにアメリカ世界だと誤解されるのは、教会がそんな倫理観も含めて、欧米文化の盲目的受容者だったからではないでしょうか。もっとも、その反対に、純国産的でなければと、キリスト教倫理に「日本」が入ってくることにも問題があることは言うまでもありません。

 聖=清ではないのです。何度も言ってきたことですが、聖とはもともと「区別された」という意味で、厳密に言いますと、区別された方とは神さまのことです。少しむつかしい言い方になりますが、その意味で聖とは、神さまだけが持っておられる絶対的な他者の世界のことであると言わなければなりません。私たちはどんなに努力しても、神さまのような絶対的他者にはなり得ない。ただ、イエスさまの十字架に罪赦された者だけが、その神さまから「あなたはわたしのもの」と宣言されてこの世の者とは区別され、神さまの聖に加えられるのです。もちろん神さまは清いお方です。聖が清になるのは、そこからです。その過程を間違えると、異なるものをキリスト教だと勘違いしてしまうことになります。聖書信仰に立つ私たちは、その辺りを気をつけていたいのです。


V 主を喜ばせるために

 ところで、神さまの聖を侵害するものは、十戒を上げるまでもなく、他にもたくさんあると思われるのに、なぜ不品行だけが取り上げられたのでしょう。それが神さまの聖=清を著しく侵害する代表的なことだったからです。このところから、「不品行を犯してはならない」という否定のメッセージではなく、まず神さまの聖に加えられていることを、あなたの信仰の中ではっきりさせなさいというパウロのメッセージが聞こえてきます。「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」(7)と。神さまを生活の中心にすることが第一なのです。

 まず「神さまを喜ばせるために」(1)とパウロが高々と宣言したのは、それこそが彼の中心メッセージだったからでしょう。ところが、<神さまを喜ばせる>と聞きますと、現代人は絵に描いた理想と考えるようです。そんなものは現実にはあり得ない。生きていくためにはダーティな部分も必要というのが現代人の価値観です。そして、時代を重ねるごとに、その傾向がますます強くなっていくでしょう。昨日の新聞に、アメリカ議会が広島の3分の1程度の小型原子爆弾開発を決議したとありました。他に被害を与えずに地下要塞を破壊することが出来るそうですが、テロの抑止力になると考えているようです。しかし、新しい武器が平和を造り出した例を私は知りません。むしろ、新しい武器はいつも悲惨な現実を生み出してきました。憎しみや争いが渦巻く世界を平和で穏やかな世界に変えていく力はテロでもなく、戦争でもない。政治すら無力であると、ここ何ヶ月か国内外の熾烈な政治ドラマを見ていて感じないわけにはいきません。

 そんな世界を意識してのことでしょうか。パウロは、「ですから、このこと(不品行を避けよという戒め)を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです」(8)と結論づけます。不品行は神さまを拒む行為なのです。現代が神さまを拒否している。そこに異論はないでしょう。<神さまを喜ばせるために>、不品行はそのような生き方をするための最も重い障害であると、そんなパウロの憤りを感じます。まさに現代のことではありませんか。神さまもそんな現代を拒否されているのかも知れません。そうした世相が強くなればなるほど、基準を「神さまを喜ばせよう」とするところに置いた歩みが大切なのではないでしょうか。「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われたことをかみしめたいと思います。十字架にかかることで世の光となられたイエスさまに従う。私たちがそんな生き方を志すことで、何よりも神さまが輝いていくのです。愛も平和も正義も公正も、そこから新しく生まれてゆくのではないでしょうか。神さまが、私たちのところで輝くことを拒否されないうちに、「神さまを喜ばせる」信仰と愛に、苦悩し、己れと格闘しながら育っていきたいと願います。「私たちは知ろう。主を知ることを切に求めよう。主は暁の光のように、確かに現われる」(ホセア6:3)