テサロニケ書 3:11−13
イザヤ書   56:4−8

 10 祈りを私たちも

                                                         
T 祈りの信仰を

 パウロは、「テサロニケに行ってあなたがたの顔をみたい」という願いが叶わず、代わりにテモテを遣わしますが、その、まるで恋人を慕うかのような熱い思いが、2:17から続いていました。今朝のテキスト3:11−13はその締めくくりです。パウロの思いが祈りとなっています。

 ここから3つのことを聞いてゆきたいのです。まず11節から。「どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように」 一番目は、「テサロニケに行かせてくださいますように」という祈りです。パウロのもとに戻ったテモテは、彼らが諸教会の模範になるほど愛の教会に育っていると、嬉しい知らせをもたらしました。「その信仰によって慰めを受けました」(7)と大喜びのパウロですが、なおテサロニケに行きたいと願うのです。先週聞いたように、彼のイエスさまを信じる信仰と愛が、「行って顔をみたい」と具体的になrり、テサロニケ教会の人たちも、その姿勢に倣うことでした。しかし、パウロはそんな計算など全く立ててはいないでしょう。ただ純粋に彼らに会いたいと願っているのです。信仰者としての彼の生き方が、これ以上ないほど具体的に浮かび上がっているではありませんか。そして、その信仰姿勢が、ここに祈りを伴って具体化されているのです。何度も願いながら実現しなかったことも、祈ることで叶えられると、よくよく経験していたからでしょう。第二回伝道旅行の時にはその機会がなかったようです。しかし、三回目の伝道旅行の終わり頃の記事に、パウロの同行者の中に「テサロニケ人アリスタルコとセコンド」とテサロニケ教会の人と思われる2人の名前が上げられており(使徒20:4)、短い期間でしたがそこに立ち寄って暖かい交わりを持った形跡が認められます。祈りが神さまに覚えられたということなのでしょう。


U 主の愛に招かれて

 二番目は12節からです。「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように」 この手紙には、彼らテサロニケ教会の人たちの愛がたくさん取り上げられて、「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」(4:9)とあるように、「彼らの愛は模範とするに足る」ものでした。しばしばパウロは、アイロニー(反語)のように、欠けているものをさも十分なもののように語る傾向がありますが、彼らの愛についてはアイロニーではないようです。本当に彼らはイエスさまに愛され、その愛をより多くの人たちに注いでいたのでしょう。ここで引用した4:9の続きに、「実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています」(10)とあるのは、それを語っています。しかし、それでもなお、パウロは、「彼らの愛がますます豊かになっていきますように」と祈るのです。愛の深さと広さを教えられるではありませんか。

 愛は、「これだけ愛しているから、もう十分」と言えるものではない、底がないのです。愛する者のためには、いのちさえも犠牲にして惜しくないのですから。イエスさまの十字架はその典型的なものでした。罪にまみれている私たちを、ただ一方的に愛してご自分のいのちを投げ出してくださった。究極の愛がそこに実現したのです。「私たちがあなたがたを愛しているように」とありますが、パウロが言うこの「私たち」には、しばしばイエスさまが含まれていると理解してきました。いや、その中のパウロは、イエスさまに少しでも近づきたいと願う求道者であって、「私たち」の本当の中味はイエスさまなのでしょう。十字架におかかりになったその愛に到達することが信仰者の目標であると、パウロのメッセージが聞こえてくるようです。もし、「いくらか愛が育ってきたかな」という思いがあるなら、その愛はないに等しいのです。自分に囚われての愛は、イエスさまの愛とはかけ離れた自己満足と思わされます。


V 祈りを私たちも

 三番目に聞いていきたいのは13節です。「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように」 この部分は、イエスさま再臨という終末のクライマックス時に、信仰者がどうあって欲しいかを願ったパウロの祈りになっています。

 「聖く、責められるところのない者と……」とありますので、終末のイエスさま再臨は、御国に招こうとする者たちの選別にあるのでしょう。マタイなどで語られた終末の情景は、確かに人間への神さまの裁きと人間の住環境(地球や宇宙全体にまで及ぶ)破滅の宣告が中心になっていて、聖なる者とならなければ、何人たりとも、そのお方の前に立つことはできないと、イエスさまの宣言が聞こえてきます。「あなたがたの心を強め」とは、それを念頭に置いてのことでしょう。強めるとは心を鍛えることではなく、「確固たる者とする」という意味で、信仰者を立たせてくださった方の恵みがあってのこととする、パウロ独特の用法と考えられています。私たちの信仰を揺るがないものとしてくださるのは、主ご自身です。「責められるところのない」とは、「聖なる者になる(される)」ことなのでしょう。

 聖なる者とは、「区別された者」であると、何度も聞いてきました。何から区別されるのか、この世(罪ある者たちの世界)からです。イエスさまを信じた私たちは、天に国籍を持つ者である(ピリピ3:20)と宣言されていることを忘れてはなりません。しかし、だからと言って私たちに罪がないわけではない。けれども、十字架にかかり、その血をもって贖った者たちをイエスさまは、「わたしの民である」と認定してくださるのです。その十字架の主を、「わが主、わが神」と信じ、受け入れ、告白し続けていきたいですね。何かというとすぐに心が離れ、自分勝手な方向に走り出してしまう私たちです。十字架の主に目を向け続け、パウロのように祈り、みことばに耳を傾ける(聖書を読む)毎日でありたいと願います。テサロニケ教会の人たちのためにパウロが祈っていたように、私たちのために執り成しの祈りを続けてくださる信仰の兄弟姉妹たちがいることを覚えてください。きっとあなたは、神さまの前に立つことが出来るでしょう。「あなたはわたしのものである」という主の宣言を聞くために。

 このパウロの祈りに、見事なまでに彼の中心主題、「信仰、愛、希望」が語られていました。それは私たちの究極の目標です。しかし、その中心に、祈りがあることを忘れてはなりません。私たちのために祈ってくださる方たちがいるのです。私たちもそんな祈りを願おうではありませんか。先週のイザヤのことばをもう一度お聞きください。「わたしは彼らをわたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(イザヤ56:7)