1 主の溢れる祝福を

                        第一テサロニケ1:1
                        詩篇1:3

T 信仰にしっかりと立って

 パウロの手紙テサロニケ書に入ります。第二次伝道旅行で初めてヨーロッパ入りしたパウロは、ピリピ教会を建て上げた後(使徒16章)、西に100qほど離れた同じマケドニヤのテサロニケにしばらく滞在しました。AD50年頃のことです。テサロニケはエーゲ海有数の都会で、ユダヤ人も多く住んでいましたから会堂もあり、パウロはいつものようにそこに入り、「三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと議論した。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った」(使徒17:2−3)と、イエスさまの福音を宣べ伝えるのですが、それを聞いた多くの人たちがイエスさまを信じたために、妬みにかられたユダヤ人が暴動を起こして町を騒がせ、パウロは仕方なくテサロニケから退去することになりました。数ヶ月後、テサロニケに出来つつあった若い教会を案じながら、彼らを励まそうとこの手紙を書き送りました。マケドニヤから南下し、ギリシャのコリントに滞在していた時のことです。誕生したばかりの若い教会は、ユダヤ人からパウロの分身のように見られ、迫害に遭遇していたのではないかと想像します。彼らがイエスさまを信じる信仰に立ち続けるためには、どのようにイエスさまを信じるか、信仰の内容がしっかりと確立していなければなりませんでした。

 テサロニケ書は、そんな彼らの励ましのために書かれたものですが、パウロの最も古い書簡とされるこの中に、どのようにイエスさまを信じる信仰を構築したいと願ったのか、手がかりがあるのではと期待します。数年後に書かれたロマ書やコリント書など、パウロの神学書とも言える書簡とは違った趣きが意図されるテサロニケ書ですが、この小さな手紙にはパウロ神学がぎっしり詰まっています。しかも、こむつかしい匂いを感じさせないのです。まだ50代前半だったパウロの、ひたむきな信仰に触れることができるようです。テサロニケの教会は私たちの時代に重っているように思われ、そのことばの一つ一つは、現代の私たちが聞かなければならないことばかりだと思うのです。


U パウロ書簡の原型が

 1:1からです。「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように」 この書簡が密度が濃い割に短い手紙になっているのは、文章が単純なためではないかと思われます。きっと、パウロの中にはいろいろな思いがぎっしり詰まっているが、彼はその全部を吐き出そうとしていないのでしょう。まだ熟成の途中なのでしょうか、それはこの挨拶にも現われているようです。コロサイ書と比べてみましょう。「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(コロサイ書1:1−2)パウロ書簡中、最も短い挨拶のコロサイ書ですが、それでもテサロニケ書に比べると長い、その原因となっているキイワードは「使徒」ではないかと思われます。これを省いたために極端に短くなっているのです。
 使徒とは、イエスさまの権威を担う者として、ペテロやヤコブなど12人の弟子たちをイエスさまご自身が選ばれ、任命されたもので、(マタイ10:1−4)イエスさまの代理人と言っていいでしょう。このタイトルはパウロ書簡13通中、9通に見られるのですが、それは、彼が語る福音が確かにイエスさまのものであるという証しのためでした。ところがテサロニケ書など4通にはこのタイトルが用いられていないのです。もともとパウロは12使徒の一人ではなく、迫害者としてクリスチャンたちを追いかけ回していた時に、よみがえりのイエスさまから「あなたを異邦人に遣わす」(使徒22:21)と伝道者に召し出された者でした。それだけに、使徒というタイトルにためらいもあり、また重い責任も感じていたのでしょう。パウロが教会に書き送った手紙として最初のものであったテサロニケ書に、これが加えられていない理由の一つがそこにあるのではないかと感じます。もちろん、まだパウロが諸教会に書き送ろうとしている手紙の様式が確立していなかったことや、ごく最近その町を離れたばかりだったことも理由の一つとして上げるでしょう。もともと彼の手紙はその時々の必要から書き送られたものですし、ロマ書やコリント書にしても最初から組織的な神学書を執筆しようとしたわけではありません。しかしテサロニケ書を書き送ったことで、その後の方向性が決まったのではないかと想像します。ですからテサロニケ書は、パウロ書簡の原型と考えていいでしょう。その意味で、この挨拶にはパウロ神学の萌芽がいくつも見られるようです。


V 主の溢れる祝福を

 「パウロ、シルワノ、テモテから」とあります。使徒ということばは見られないものの、シルワノやテモテは一緒にテサロニケを訪れた伝道者で、パウロと共にイエスさまの福音を大いに証ししたことでしょう。シルワノ(使徒行伝ではシラス)は、パウロと共にテサロニケ教会誕生の立て役者として名前が挙げられていますし、テモテは、パウロが退去した後のテサロニケでしばらく牧師として留まったようです。彼らは当然、テサロニケ教会の人たちに多くの親しみを感じていました。この挨拶に名前を連ねることは、シルワノやテモテからも要請されたものでしょう。しかし、ここに三人の名前を連名で挙げたもう一つの理由があります。それは、この手紙はパウロ個人の思想ではなく、イエスさまを信じて伝道者となった者たち共通の証言であるという主張です。つまり、使徒と同じ重さを持っているのです。ルカが好んで用いたシラスという愛称ではなく、シルワノという公式の名前を記していることも、パウロのそんな思いを伝えてくれるようです。
 「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」 まだ小さな教会でした。しかも、誕生して間なしというのに厳しい迫害にさらされているのです。小さな教会はいよいよ小さな群れになっていたのではないでしょうか。しかし、彼らは主の教会でした。教会といっても自前の建物もなく、牧師や役員などの組織が出来上がっているわけでもない。いくつかの家々に分かれた小さな群れの集合体だったと思われます。しかしパウロは、それを主の教会であると励ましています。しかしパウロは、ここに「父なる神と……」と加えて、イエスさまの教会は、旧約聖書時代の昔からイスラエルが持ち続けて来たヤーヴェ信仰の延長線上にあると証言します。ユダヤ人が多かった当時の教会に対するリップサービスではありません。教会は神さまの新しい選びの民の群れなのです。パウロの中にその意識が確立していました。他の書簡では、「父なる神から……恵みと平安が」と移行していますが、テサロニケ書の言い方のほうがはっきりしているではありませんか。私たちの交わりは神さまの教会なのです。

 「恵みと平安がありますように」とは彼の祝祷でしょう。祝祷は礼拝の最後にあるものと決めていますが、こんな祝祷もあるのですね。13通以外にもパウロの手紙があったと思われますが、テサロニケ書以前にも失われた手紙があったようです。そんな手紙を書き送りながら、少しづつこのような密度の濃い祝祷が生まれてきたのではないでしょうか。パウロ神学の真髄でしょうね。テサロニケ教会の人たちにだけではなく、現代の私たちへ、イエスさまとパウロからの溢れる祝福でもあると聞こえて来ます。