使徒行伝

83 異邦人世界に目を(最終回)
使徒 28:17-31
イザヤ 6:8-13
Ⅰ 鎖につながれながら

 ローマに着いて三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めました(17)。ディアスポラのユダヤ人社会が世界中に出来ていたためと思われますが、ユダヤ人はいつの時代にも、コミュニティ間の連絡がよく取れていました。しかし、福音を拒否した結末(24以下)を見ますと、彼らがパウロの求めに喜んで応じたとは言い難く、もう一度集まる(23)と決めたことからも窺われるように、一部のパウロ支持者の斡旋?があって、仕方なく、おもだった人たちが集まって来たように感じられます。恐らくパウロは、ガマリエル門下のパリサイ人であったこと、かつてエルサレムで評議員まで務めたことがあるなど、その肩書きを利用したのであろうと想像します。集まって来た人たちに、パウロは言いました。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです」(17-20)

 「鎖につながれている」とありますから、相当な自由が保証されていても、拘束はまぬがれていなかったようです。このパウロの弁明は、恐らく、エルサレムやカイザリヤでの出来事がローマにも伝わっているであろうという、前提のもとで話されました。しかし彼らは、そんな連絡は何も受けていないと答えます。エルサレムのユダヤ人たちは、パウロとの係争でさんざんな目に遭いましたから、もうパウロと関わりたくないという思いがあったのでしょうか。しかし、正式な連絡はなかったとしても、何らかの情報は伝わっていたのではないかと思われます。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです」(21-22)「この宗派(キリスト教)について、私たちは知っている」とは、「知識がある」という言い方ですから、単に聞きかじったということではなく、それを聞いてよく知っていると言っているのです。「この宗派」と言っていますから、まだキリスト教はユダヤ教の一派という理解だったのでしょうが、それだけに一層、ローマにも出来ていたキリスト教会への嫉妬や妬みが感じられます。彼らがパウロから直接その教えを聞き、その上で判断したいと申し出たのは、好意的というより、むしろ儀礼的な社交辞令と考えて間違いないでしょう。


Ⅱ 福音への躓きが

 彼らは、新しい教えに対して、「至る所で非難があることを知っている」と言いました。これは、ローマという当時の世界の中心にいるユダヤ人の感覚です。キリスト教の伝播力がすでにローマ世界を網羅していたと見ていいでしょう。ですから彼らは、その教えを無視することができないと考えたのです。「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼(パウロ)は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした」(23)「モーセの律法と預言者たちの書によって」とは、イエスさまは何の根拠もなく現われたのではなく、ユダヤ人たちが大切にして来た「聖なる文書」に記されたメシアであり、それが自分たちの確固たる信仰の源であると、パウロはイエスさまを指し示したのです。聞く耳があれば、聞くことが出来たはずです。「至る所で非難があった」のは、彼らユダヤ人の立つところが、聖書ではなく、彼らの積み重ねた「人間的な言い伝え」(タルムッドなど)にあったからで、パウロが律法をないがしろにしているという批判は、そこに基づいていました。かつて、パウロ自身もそう信じてクリスチャンたちを迫害していましたから、同じ愚を繰り返させてはならないと、丁寧に聖書を引きながら説明したと思われます。それが「朝から晩まで」ということばになったのでしょう。しかし、「ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけた」(24-25)のです。これはパウロの三回もの伝道旅行の再現でした。特にアテネの哲学者たちの言動に非常に似ています。イエスさまの福音は、ユダヤ人にとってもギリシャ人にとっても躓きであり、それは現代の私たちにとっても同じであると聞こえてきます。聞いて信じる者たちは、まことに残念ですが、当時も現代も一握りのわずかな人たちでしかないのです。

 帰りかけた人たちに向かって、パウロは言いました。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう。」(25-28)


Ⅲ 異邦人世界に目を

 パウロが引用したことばは、イザヤ書6:10の70人訳と呼ばれるギリシャ語訳ですが、イザヤの召命時に神さまが言われたものです。それは、南王国が滅亡してバビロンに捕らわれるおよそ100年も前のことですが、100年後、エレミヤが徹底的にイスラエルの民を断罪し、バビロンに囚われとなるしか救われる道はないと言った、その同じ状況が絶望的に進行していたのです。それはかつてイエスさまが、不信仰なユダヤ人民衆に向かって言われたこと(マタイ13:13-15)でもありました。パウロはそれを、ローマのユダヤ人に向けたのです。70人訳では「鈍くされる」(ヘブル語本文は微妙)と受動態になっていますが、それはこのテキストを、イスラエルが悔い改めないのは、神さまご自身に躓いたからであると読むためです。ここは、そのように聞かなければなりません。残念ながら邦訳は、これを受動態にはしてはいません。しかし、どんなにそれが神さまから出たことであると説いても、彼らの心に届いては行きません。もうすでにユダヤ人グループは、この「宗派」といかなる関係も持ちたくないと思い始めています。そんな状況下でのパウロと彼らの会談であり、恐らくこれは、ユダヤ人グループにとってもクリスチャンたちにとっても、予想通りの結果に終わった会談であった言わざるを得ません。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」(30-31)「たずねて来る人たち」は、異邦人が多かったと思われます。これは当時のキリスト教会がユダヤ人と完全に決別し、異邦人に目を向けていったことを示しています。ローマを皮切りに、世界宣教が始まったのです。その火をつけた当事者がパウロでした。

 17節以降、「私たち章句」はありません。使徒行伝を終えようとするこの部分は、恐らく、ローマを離れたルカが、どこかでパウロの動向を調べ上げ、福音の世界宣教がこのような状況下でも妨げられることなく進展していったという、追加証言なのでしょう。パウロも一時釈放され、ピリピ教会などを巡回していたようです。或いは、伝説のように、スペインにまで足を伸ばしたのでしょうか。しかし、だからといって、宣教活動の舵がすぐに異邦人に切り替わり、異邦人伝道が世界に向かって進展して行ったかというと、そう簡単ではないようです。キリスト教会とユダヤ人会派との確執は依然として続き、やがてそれがローマ当局の目に不快なものと映るようになり、ユダヤ人のローマ退去命令となって行きます。ネロ皇帝晩年下のキリスト教徒迫害にはまだ間がありますが、すでに迫害の兆しが見えていました。世界宣教の前に、迫害の時代を迎えなければならなかったのです。ルカがパウロの殉教をどこで耳にしたか分かりませんが、以降、ルカの活動の痕跡は伝承に移っていきす。ルカが第三文書、使徒行伝の続きを書いていてくれていたら……と、何人もの人たちが惜しんでいます。



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