使徒行伝

82 福音の世界宣教に向けて
使徒  28:11-16
ハバクク 2:18-20
Ⅰ 航海を終えて

 「三ヶ月後に、私たちは、この島で冬を過ごしていた、船首にデオスクロイの飾りのある、アレキサンドリヤの船で出帆した」(11)マルタ島に漂着したのは11月と思われますので、三ヶ月後とは二月のことです。まだ季節は冬ですが、海もかなり静かになって来たのでしょう。この時期に地中海の航海が全面解禁となります。マルタ島に避難していたイタリヤ行きの船で出帆しました。「船首にデオスクロイの飾りのあるアレキサンドリヤの船」は、やはりエジプトの小麦をローマに運ぶ御用船だったと思われます。船乗りたちはお互いに知り合いだったのかも知れません。「デオスクロイ」は地中海を走り回る船乗りたちの多くが信仰している守護神でしたから、いよいよそんな異教に満ちたローマに向かうのだと、ルカの武者震いのような興奮が伝わって来ます。

 船は多少もたつきましたが、航海を重ねました。「シラクサに寄港して、三日間とどまり、そこから回って(海岸沿いに進み・新共同訳)、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹き始めたので、二日目にはポテオリに入港した。ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した」(12-14) シラクサはシシリー島の港、レギオンはイタリヤ半島の突端にある町、ポテオリはメッシーナ海峡を通り抜けて北上したところにあります。航海が解禁されたとは言え、まだ強い北からの風が完全に収まったわけではありません。「三日間」とか「一日」とか「二日目」とか「海岸沿いに進み」など、迂回したり、待機したりと余分な時間がかかったことを窺わせます。しかし、ようやくポテオリまで来ました。この船はマルタ島に避難していましたが、積荷に被害はなかったようです。ポテオリ(現ナポリ・イタリヤ半島中部の港湾都市)はアレキサンドリヤから運ばれて来る小麦の集結所(当時)になっており、この船の終点でした。マルタ島で乗り込んだ遭難船の一行は、そこでこの船に別れを告げました。一行はここから5日ほどの行程を、徒歩でローマ入りするのです。この記録の資料はルカの航海日誌によるのでしょう。彼はヒポクラテス学派に属していた医者らしく、臨床記録を細かくつける習慣を身につけていたようです。ポテオリでは「兄弟たちに会い、七日間滞在した」とありますから、そこにはクリスチャンたちがいて、集会が持たれていたことをパウロは?知っていたのでしょうか。きっと百人隊長の許可のもとで、パウロは兄弟たちを探し出し、勧められるままに七日間そこに滞在します。百人隊長ユリアスが公務のためにポテオリにしばらく滞在しなければならなかったとしても、彼の並々ならぬ好意が感じられます。この七日間がいつからいつまでかは分かりませんが、その期間中に、「週の初めの日の礼拝」をともにする機会があったと思われます。


Ⅱ パウロを送り込んだ主のご計画は

 その七日間の初めに、誰かがローマに走ったのでしょう。ローマにいたクリスチャンの仲間たちにパウロのことを伝えるためです。彼らはパウロのことを聞き、ローマから途中の宿場町まで迎えに来ました。「私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」(15)

 アピオ・ポロ(フォルム・アピイ)はローマからアッピア街道を二日路、トレス・タベルネは一日半路のどちらも宿場町ですが(フォルムは広場とか町の意)、ローマの兄弟たちは二組に分かれてパウロを出迎えました。ポテオリやローマにもかなりの数の兄弟たちがいました。彼らがどのような経路を辿ってローマに来たのか不明ですが、かなり以前からローマにはユダヤ人が住んでいたと、ヨセフスの「古代誌」や「戦記」に記されており、恐らく、迫害で散らされたキリスト者たちが、ユダヤ人コミュニティを頼りに流れ着いたのでしょう。彼らが同胞のユダヤ人たちに、イエスさまのことを証したことは疑い得ません。家の教会が誕生し、人数が多くなるにつれて、何カ所にも家の教会が……、そして、近隣の町々にも広がって行ったと思われます。エルサレム教会誕生から、30年は経っていました。しばしば現代の私たちは、パウロをローマ伝道の起点としがちですが、決してそうではないのです。パウロをローマに遣わし、パウロにローマで福音の証言をさせようとされた主のご計画は、すでに始まっていた家の教会とは別のところにあった、と見なければなりません。

 「感謝」は彼らとの礼拝、パンを裂く交わりがあったことを感じさせてくれます。初期教会で「感謝」は、聖餐式を現わしていたからです。囚人としてカイザルの前に立たなければならないパウロにとって、これは時宜に叶った励ましではなかったでしょうか。トレス・タベルネを三軒茶屋と訳す人がいますから、そんな規模の宿場町だったのでしょう。このパンを裂く交わり=礼拝は、より大きな宿場町フォルム・アピイで行われたのであろうと思われます。アッピア街道は、アッピア・クラウディウス監察官の要請によってローマ以南の大動脈として造られて(BC312年)その名前がつけられ、ローマを代表する街道となりました。ネロ帝の迫害下で、ペテロがローマを脱出し、このアッピア街道を歩いている時に、イエスさまにお会いしたという伝説は余りにも有名です。この伝説を題材に書かれたシェンキヴィッチの小説・「クオヴァディス(主よいづこに)」もよく知られています。


Ⅲ 福音の世界宣教に向けて

 パウロとローマ在住のキリスト者との出会い、そして行われた「礼拝」は、百人隊長ユリアスの配慮があってのことでしたから、もしかしたら彼は、船中やマルタ島でのパウロからの問いかけに、神さまを認めた一人だったのかも知れないと想像します。ローマに着くと、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許されました(16)。他の囚人たちは牢獄に拘束されたのでしょう。パウロだけが市内に一軒家を借りて(30)、番兵付きながらかなり自由に友人たちと会うことも許されたのは、極めて特別のことでした。その経緯を暗示していると思われる写本がありますので、紹介しましょう。「私たちがローマに入ると、百人隊長は囚人たちを近衛軍司令官に引き渡したが、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、兵営の外にひとりで住むことを許された」(西方本文ほか)この近衛軍司令官というのは、皇帝の近辺を警護する守備隊だったゲルマニクス軍団の指揮官だったようです。名前は記されていませんが、恐らく「ユリウス」、百人隊長ユリアスの上司です。ユリアスはそこから、恐らく総督フェスト赴任の時に、随行部隊の指揮官としてユダヤ州に派遣されていたのです。囚人なのに、パウロだけがそれほどの自由を許されたのは、まだ未決囚ということもあったでしょうが、何よりも、ユリアスが上司・近衛軍司令官に上申したためではなかったかと思われます。難破するほどの航海を重ね、しかし一兵も損なわずにローマに到着しました。その功績はパウロにあると、きっと彼はそう説明したのでしょう。すると、いよいよユリアスの福音との出会いが、本当らしく聞こえて来るではありませんか。もっとも、ルカが口をつぐんでいますので、想像し過ぎかも知れません。

 パウロのローマ進出が主の別のご計画であったというのは、この百人隊長の福音への接触の中に暗示されているようです。恐らくローマとその近郊に建てられていた家の教会は、ユダヤ人向けの働きだったのでしょう。それがパウロによって異邦人・ローマ人にも広げられて行ったのです。ローマにパウロを送り込んだのは、福音の世界規模拡大が主のご計画だった、からではないかと思われてなりません。もちろん、ローマの教会がバックアップしたことは疑いないでしょう。この百人隊長や福音を受け入れた他の人たちのその後の動向について、ルカは何も語ろうとしていませんが、それは恐らく、パウロ書簡に続くのであろうとの意識がルカにあったためと想像します。ここで「私たち」フレーズは終了します。以後ルカの動向は、わずかにパウロ書簡に名前が出てくるだけで、ほとんど分かっていません。パウロがここから書き送ったと思われるコロサイ書とピレモン書には、「愛する医者ルカがよろしく……」「ルカからもよろしく」とありますので、かなりの期間をパウロとともに過ごしたのではないでしょうか。使徒行伝や福音書は、この期間に完成したと思われます。今朝のテキストは、福音の世界宣教に向け、準備が着々と整えられていたことを物語っているようです。 



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