使徒行伝

8 いのちの君に応える者は
使徒   3:11−26
  イザヤ 57:15−19
T イエスさまの御名が

 「美しの門」で物ごいをしていた、足の不自由な男がいやされた出来事(3:6-8)は、たちまちのうちに神殿域内に広がり、驚いた人々がペテロたちのところにやって来ました。そこは、美しの門から外庭に出たところにある屋根付き回廊で、ソロモンが建てた第一神殿時代の古い姿をとどめているところから、「ソロモンの回廊」と呼ばれていました。ちょうど、祈りの日課を済ませたペテロたちが、内庭から戻って来たところだったのでしょう。ペテロの3回目の説教が始まります。

 「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」(12-16) 前半のところですが、ペテロはまず、ユダヤ民間に根強く残っていた、偉人信仰を否定するところから始め、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神」が事の発端であると、ユダヤ人のヤハヴェ信仰に訴えます。この言い方は出エジプト記3:15に起因しており、従って、ユダヤ人にとって絶対であった、モーセの権威を持ち出したのです。そして彼は、「先祖の神はそのしもべに栄光を与えた」と、ユダヤ人にとってのもう一人の権威である、預言者が描いた苦難の僕(イザヤ53章)につなげ、それはイエスさまなのだと、短い言い方ながら、極めて的確に、神さまによって、イエスさまがメシアとして来られたことを論証しました。ペテロは、そのイエスさまの名によってこの不思議が行われたのだという強烈な主張で、奇跡を目撃した人々を、イエスさまは栄光の主であるとする証人に立てたわけです。その証人たちにとって、「あなたがたが拒み十字架につけたそのお方を、神さまがよみがえらせた」と、それは格別に鋭い問いかけではなかったでしょうか。


U 回復の時が

 「あなたがたがイエスさまを十字架につけた」と、ペテロの説教は、民衆にとって驚嘆の的であった「足なえのいやし」から離れ、イエスさまのことだけに的が絞られます。後半です。「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」(17-19) 前半での彼ら民衆に対するペテロの告発は、「拒んで」(二回)「殺した」と峻烈なものでした。しかしそれが、「無知のためにあのような行ないをしたのである」、そして、そのことをきっかけに、「神さまがご計画を実現された」と、とても優しい言い方に変わってきています。それは、「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」と、罪の告発から赦しの招きへの変化でした。イエスさまよみがえりについて、今回は前半でほんの少ししか触れていませんが、それは、死にさえも打ち勝たれたお方があなたがたの前にいるではないか、そのお方があなたがたの立ち返るのを待っておられるのだ、との伏線になっています。彼らにとって、その神さまへの信仰の回復こそ、何よりも重要でした。

 その回復(休息)は、イエスさまを介して実現するのです。「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシアと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです」(20) 詳しいことは何も語られていませんが、これはイエスさま再臨のことと思われます。彼らは、よみがえって昇天されたお方を、待たなければなりませんでした。しかし、こう続けられます。「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」(21) この説教を聞いていた人たちの多くは、イエスさまを信じて教会に加わってきましたが(4:4)、全体としてのユダヤ人は、聞く耳を持たないまま、その再臨を遅らせているではないかと、これはルカのメッセージなのかも知れません(ヘブル書2:8新共同訳参照)。彼は鋭く、異邦人教会の人たちへのメッセージを、こう語ったのでしょう。しかし、聞く耳を持たないのは、ユダヤ人ばかりではありません。現代人こそその最たる者ではないかと聞こえてきます。


V いのちの君に応える者は

 ペテロの説教の終盤です。モーセやサムエルなどの証言、それはメシアを指すものであると、ユダヤ人には良く知られていました。それをペテロはイエスさまに結びつけますが、聴衆はすでに理解し始めていたのでしょう。「神さまは、私(モーセ)のようなひとりの預言者をあなたがたの中からお立てになる」(22・申命記18:15-16)「あなた(アブラハム)の子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける」(25・創世記12:3、22:18)などの言い方には、その方の名前が出ていないのに、彼らは「それはイエスさまのことであろう」と納得し、それに応えようとしている響きさえ感じられます。そしてペテロも、「あなたがたは(その)預言者の子孫であり」(24)「あの契約の子孫です」(25)と彼らを励ましながら、「神は、まずそのしもべ(イザヤ53章の苦難の僕・イエスさま)を立ててお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです」(26)と勧め、この説教を締めくくりました。その結果について、ルカは「みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった」(4:4)と加えています。

 ところでルカは、この記事をユダヤ人向けに記したわけではありません。彼の関心は、地中海世界に広がりつつある、異邦人教会にありました。彼は今、ローマでこの書を執筆しており、今後ますます多くの異邦人が福音を聞くことになると、遠く現代の私たちにまで目を注ぎながら、語りかけようとしています。ペテロの説教を骨格に、ルカのメッセージも加えられている。聞いていきたいと思います。

 二つあるのですが、一つ目は、イエスさまがきよい、正しい方、いのちの君と呼ばれている、そのタイトルからです。これらの呼び名は神さまに対する尊称であり、従ってそれは、イエスさまが神さまご自身であるという、初代教会の告白であるということです。それは恐らく、ルカの優れた文章力から生まれていると思われます。中でも「いのちの君」は救い主と同義の言い方ですが(5:31)、この尊称は、もともとヘレニズム世界で神々やローマ皇帝に用いられていたものを、ルカ(パウロを含む)は、神さまとキリストにのみ限定しました。いのちの救いは、神さまご自身たるイエスさまを置いて他に断じてないという、これはルカのメッセージなのです(4:12参照)。そしてもう一つは、創世記12:3と22:18の二箇所を併合した形での、「諸民族」が祝福を受けるというところですが、その「条件」の一つ、「アブラハムの子孫によって」に該当する可能性(イスラエル)は、彼ら自身が反故にしてしまいましたが、ルカはそれをイエスさまであるとし、その贖罪によって祝福される者たちが異邦人に拡大されると、そんな意識がまだ芽生えていなかった初期教会に、未来形として提言したということなのでしょう。それはまさに、異邦人教会時代が始まったばかりの時期におけるルカの、これは神さまのご計画なのだという、メッセージではなかったかと思うのです。「あなたがた」と呼びかけられている者たち、それは、現代の私たちなのだと聞き、応答していかなければならないのではないでしょうか。