使徒行伝

78 絶対的な力の前で
使徒 27:1−12
詩篇  69:1−3
T ローマへ

 「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロとほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。私たちは、アジヤの沿岸の各地に寄港して行くアドラミテオの船に乗り込んで出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した」(1-2) 皇帝への報告書を仕上げ、総督はパウロのローマ行きを決定しました。アドラミテオの船はチャーターしたものではなく、小アジヤ西北部・ムシヤにある港を母港とする沿岸航路の船でした。母港に帰るところだったのでしょう。一隊の兵士たちと何人かの囚人たち、他にアジヤ沿岸の港で入れ替わる一般乗客たち、水夫も合わせると相当な人数です。「私たち」とありますから、ルカも同行していました。ルカもアリスタルコも、そんな乗客として乗船していたのでしょうか。ある注解者は、彼らはパウロの奴隷として乗り込んでいたのではないかと推測しています。パウロは、二人の従者を連れた、裕福な囚人と見られていたのでしょう。ですからパウロは、この航海の間中、統率者・百人隊長から別格の待遇を受けていたのではないかと、その注解者は言っています。あり得ることでしょう。別の注解者は、アリスタルコは囚人の一人ではなかったかと推測していますが、むしろ、パウロの従者と考えたほうが自然でしょう。しかし、形はどうあれ、アリスタルコもルカも、パウロの身を気遣って同行したことは間違いありません。ユリアスから破格の待遇を受けて、この航海でルカとパウロは、福音書や使徒行伝の記録を整理し、ルカは、福音書の原稿を書き進めることが出来たと思われます。

 百人隊長ユリアスは、皇帝直属の近衛部隊に所属していたようですが、この囚人護送という重大な任務に抜擢され、部下の近衛兵たち(70~80人?)を指揮しながら、この囚人たちを護送するという任務に就きました。アドラミテオの船はアジヤ州までしか行きませんから、途中で船を乗り換えなければなりません。そんな煩雑な行程のことも、良く知っていたのでしょう。翌日、船はシドンに着き、荷物の積み卸しもあって、停泊します。ユリアスは、パウロ(当然、奴隷のルカとアリスタルコも)の外泊?を許可しました。古くからフェニキヤの港湾都市だったシドンには、ステパノの殉教後散らされた人たちが住み着き、教会が出来ていたと思われます。友人たちのもてなしを受けた(3)というのは、その教会を訪れたことを指しています。ユリアスもその辺りの教会事情を承知していたのでしょうか、ローマの一部の人たちは、教会にそのような一種の市民権を認めていたことが暗示されています。シドンの兄弟たちとどのような交わりがあったか分かりませんが、パウロがユダヤ人たちに訴えられ、カイザルに上訴し、今、ローマに行くところであると、その辺りのことは伝えられていたはずです。パウロのために祈る人たちが広がっていたことは、間違いないでしょう。


U 船を乗り換えて

 シドンを出航した船は、「向かい風」(4 陸からの西北風)のために、沿岸航路を離れ、キプロスの島影を(南側?)、風を避けながら航行しています。すると、陸からの風と西に向かって流れる海流に乗って航行することが可能になり、キプロスの西端から北上しますと、向かい風にさほど妨げられずに、パンフリヤ地方まで近づいていくことが出来るようです。そんな航海は、地元アドラミテオの船だったから出来たのでしょう。小アジヤの南側に並んでいる「キリキヤとパンフリヤの沖を航行しながら」(5)という表現には、向かい風のために、船がかなり東に流されながら北上していたことを窺わせます。パウロとルカは2年前、エルサレムに帰るときに、その逆のコースを通りました。

 ともあれ船は、パンフリヤ地方のミラに着きました。「そこにイタリヤへ行くアレキサンドリヤの船があったので、百人隊長は私たちをそれに乗り込ませた」(6) ユリアスは、初めからどこかで船を乗り換えるつもりでしたから、ミラに着くとすぐに船を探しました。乗って来たアドラミテオの船は、船足の遅い沿岸航路の定期船です。キプロスの南側を迂回したことで、かなりの日数を浪費してしまったと感じていたのでしょう。どこかで冬の危険を避けるにしても、もう少し先まで行っておきたいと、指揮官の気持ちが伝わって来るようです。乗り換えたアレキサンドリヤの船は、恐らくローマ政府の御用船でした。積荷はローマ政府のものだったと思われます。それが風のために、思うように進むことができない。幾日もかかって、ようやくクニドの沖に着きましたが、そこはまだ小アジヤの西端に過ぎません。そんな具合でしたが、船長はさらに先に進もうとしています。アレキサンドリヤから積んで来た積荷を、何としても冬までにローマに運んでおきたかったのでしょう。そこからは風のために、それ以上西に向かって進むことができず、仕方なく南下してサルモネ岬の沖を回って、クレタの島影(南側)を航行し、その岸に沿って進みながら、ようやく良い港と呼ばれる所に着きました。近くに、ラサヤの町がありました(7-8)。「良い港」というのは、他にたいした港のない南海岸だから、そう呼ばれていたようです。現在もそこは、「良い港」と呼ばれているそうです。しかしどうも、「良い港」は、名前とは違って、越冬には適していないようです。クレタ島南海岸の西端に近いところに、別のもっと大きなヒニクス港がありました。船長たちはそこまで足を伸ばそうとします。同じクレタ島のわずか80?ほどのところです。そこまでなら行けると思ったのでしょうか。


V 絶対的な力の前で

 「かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、『皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った」(9-10) パウロは、船長たちが先に進もうとしていることに反対しました。「断食の季節もすでに過ぎていた」とあります。これは、ユダヤ人が習慣としている、大贖罪日の前の5日間の断食を指しています。それは年によって違いますが、だいたい9月末から10月初めに行われました。その期間が終わっているということは、この航海が危険な時期に入っているということです。通常、9月半ばから11月半ばまでは、航海に危険が伴う時期とされ、それ以降春まで、航海は自発的に中断されていました。パウロ書簡の第二コリント書11:24に「難船したことが3度あり、一昼夜、海上を漂ったこともある」とありますから、パウロはこれまでに、二度も遭難の経験をしていました。「一昼夜、海上を漂った」というのが三度目の、この航海のことでしょう。それほどの危険があると、パウロは心配したのです。しかしそれは、航海に関して素人の意見だったのでしょうか。航海のプロたちは、「良くない港」では越冬したくありませんでした。

 その辺りのことを、ルカはこう記しています。「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレタの港ヒニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった」(11-12)「大多数の意見」とありますから、どうしようかと全員?で相談したのでしょう。結局、船長たち、航海のプロの意見が通りました。最終的には、百人隊長ユリアスの決定であったろうとの印象を受けます。もっとも、9-12節の記事は、ルカにしては珍しく、前後のつながりがはっきりしない、妙にもたついた言い方ですので、相談がもつれたことを窺わせています。ともあれ、穏やかな風に変わるのを待って、「良い港」を出航しました。

 ルカはこの航海で、初めからずっと細かな航行の様子を記して来ました。寄港した港の名を記録しているのは、使徒行伝中のルカの特徴ですが、それにしても、この航海の様子は、いかにも詳細に渡っています。それは、クレタ島付近でついに「ユーラクロンという暴風」(14)のために遭難してしまうことに、つなげるためではなかったかと思われます。「ユーラクロン」とは、クレタ島の高い山から海に切れ込む峡谷を通って、突然と吹き下ろして来る強風のことで、当時の航海用語だそうですが、その嵐の猛威の前で、人間の抵抗など全く無力になってしまいます。隠されてはいますが、ルカはそこに、神さまの力を重ねているようです。そんな絶対的な力の前に、現代の私たちでさえ、どれだけ謙遜にならなければならないか、それは神さまの前でのことであると、聞く必要があるのではないでしょうか。



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