使徒行伝

76 光の主は現代にも
使徒 26:1−23
詩篇  9:1−10
T どうか忍耐をもって

 アグリッパはパウロに、「あなたは自分の言い分を申し述べてよろしい」と許可を与えました(1)。フェストはこの会合の司会役を、アグリッパに一任したのでしょう。これは賓客を重んじてのことであり、客人にとっては名誉なことでした。パウロもまたそんなローマやギリシャの習慣に通じていて、アグリッパに手を差し伸べ、パウロの弁明が始まりました。これは2-23節に及ぶ長いものですが、今回はその部分を取り上げたいと思います。「アグリッパ王、私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします」(2-3) パウロは、ペリクスや大祭司アナニヤの時と同様に、アグリッパ2世についても、前もって情報を仕入れていたようです。アグリッパは単なる地方領主でしたが、ローマ皇帝から王の称号を獲得し、大祭司の任命権まで得ていて、「ユダヤの権威」という評判が立つほどの人物だったようですから、ユダヤとローマ双方から信頼を得ていたと思われます。このとき、まだ30才という若い王です。アグリッパは、ユダヤ教に縛られる立場にはいませんでしたが、「その道」については客観的な意味で精通しており、パウロは、彼が自分の言い分を正しく受け止めてくれると思ったのでしょうか。テルトロの時のように短くまとめようとはせず、初めから、問題の中心は、アグリッパも精通しているユダヤ教神学に関わることであるとして、「忍耐をもってお聞きくださるように」と、長い陳述になることを予想させています。フェストには縁遠い論点だったでしょうが、それでも彼はパウロの論点にいたく興味を示し、聞き入りました。

 「では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました」(4-5)ここには、彼がラバン・ガマリエルの門下生だったということに触れられてはいませんが、エルサレムのすべてのユダヤ人が知っているとは、それを前提にしており、パウロの言い分が誇張ではないことが分かります。アグリッパは勿論、パリサイ人のことを知っていましたから、パウロがパリサイ人として語るなら、その証言は真実であると受け止めたのでしょう。


U イエスさまに躓いて

 「そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの12部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか」(6-8)パウロは、彼を告訴したユダヤ人たちと同じ、「神さまが約束してくださった救いを待ち望んでいる」「希望」を共有しているのだと訴えます。それは、パリサイ人たちにとって、終末のメシアによってもたらされる「死者の復活」でした。イスラエル12部族の埒外にいるアグリッパ王、サドカイ人や一部のユダヤ人たちには信じ難いことでしたが、確かに昔から、イスラエルの人たちはその信仰に生きて来て、今も熱心に祈りや礼拝において、その希望を待ち望む準備を続けていました。その点でパウロは、彼らユダヤ人たちと何ら違いはありません。それなのに、なぜユダヤ人たちがかくまでパウロを憎み、執拗に追いかけ回すのか、その理由は、恐らく、本人たちにも分からなかったでしょう。パウロが律法を守っていないから? 神殿を汚したから? そうではありません。ここにはまだ隠されていますが、彼らは、パウロの背後におられるお方、イエスさまを憎んでいたのです。信じられないのは、神さまへの希望や死者の復活ではなく、イエスさまのよみがえりなのです。イエスさまだから信じられない。更に言うなら、イエスさまを信じることを拒否しているのです。パウロは、そのイエスさまを信じました。そのことで告訴されているのです。パウロはそれを理解しました。だから、自分もかつてはそうだったと告白しているのです。

 「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。……」(9-12) パウロもイエスさまに躓いたのです。そして、今パウロを告訴してやまないユダヤ人たちと同じように、キリスト者たちの迫害者になりました。「賛成の票を投じた」とあるのは、評議会の議員であったことを意味しています。ですから、大祭司から逮捕状を委託され、それを持ってダマスコまで聖徒たちを追いかけて行ったのです。聖徒たちにイエスさまを信じる信仰を撤回させる、それが目的でした。今、彼を追いかけ回しているユダヤ人たちは、もっと短絡的に、パウロを殺そうとしています。パウロにイエスさまを重ねたのでしょうか。


V 光の主は現代にも

 ところが、聖徒たちを追いかけ回すパウロに、復活のイエスさまが現われました。その様子は9:1-19、22:4-16に続いて3回目ですが、前二回と共通の部分と、共通ではない部分が語られています。共通の部分は、強い光に照らされ地に倒れたことです。共通でない部分の一つは、盲目になってアナニヤと出会い、再び見えるようになった記事が削除されていること、そしてもう一つは、イエスさまが直接彼に現われたことです。前半(14-15)は共通部分ですが、続く16-18節は、この記事だけのものです。ここには、イエスさまがパウロに現われた、複数回がまとめられていると言っていいでしょう。イエスさまとの出会い、そのストーリーに強調点が置かれるなら、アナニヤとの出会いは必要でしょう。しかしルカは、復活の主がパウロに直接会ったと証言したい。それがこのメッセージの中心なのです。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」「主よ。あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせるためである」(14-18)

 かつての預言者たちと同じように、これは、パウロの召命の記事でした。ガラテヤ書でパウロが、「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」(1:12)と言っている通りです。イエスさまは、この召命を何度も繰り返すことで、伝道者パウロを訓練されたのだろうと思われます。異邦人の使徒パウロが、インスタントに出来上がったわけではありません。期間にして、およそ10年かかっています。「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということでした」(19-23)

 「ユダヤの全地方に」とは、「異邦人使徒」の訓練だったのでしょうか。その間に、アグリッパがパウロの噂を聞いた可能性もあるでしょう。パウロもルカも、「世界」を見据えていましたが、今、目の前にいるアグリッパに福音を語る、そのことをなおざりにはしていません。主は、アグリッパの主でもあったからです。それは、現代の私たち、あらゆる状況のあらゆる人たちについても同じだと、聞かなければならないでしょう。



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