使徒行伝

73 この福音を聞くのか?
使徒 24:22−27
詩篇 26:1−12
T 裁判の延期は

 パウロの弁明を聞いて総督ペリクスは、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう」と言って裁判を延期しました(22)。裁判延期は恐らく、テルトロが「千人隊長ルシヤがやって来て、むりやりに彼を私たちの手から奪い、彼を訴える者は、あなたところに来るようにと命じた」(7新改訳註)と言ったことを重んじたためでしょう。さらにパウロが、「アジアから来たユダヤ人たちが」最初に彼を告発したのだから、彼らがカイザリヤに来て訴えるべきであると主張したことも、総督を動かしたと思われます(17-19)。それなのに、ルシヤがカイザリヤに来た形跡はありません。それどころか、ペリクスのもとで裁判が再開された形跡さえないのです。そして間もなく、ペリクスは総督を解任されます。クラウデオ帝が死去し、新しいネロ帝が誕生したからです。それは54年10月のことでしたから、この法廷が開かれたころ(57年)はすでに、ネロ政権が誕生していました。ネロは17才と若く、総督交代などはしばらく見送られていたようですが、2年後の59年に、その交代が行われます。総督の条件である、騎士階級でもなかったペリクスが総督になったのは、クラウデオ帝の母アントニアによって奴隷からいっしょに解放された、兄パッラスが皇帝補佐という要職にあったためでした(55年、解任)。クラウデオの死は、その庇護がなくなったことを意味します。政権交代から3年も経っていて、皇帝が代わったことは当然ペリクスの耳に届いていましたから、もしかしたら、裁判再開の引き延ばしは、解任を視野に入れていたためかも知れません。

 しかし、たとえそうだとしても、裁判は再開されるはずでした。にもかかわらず、裁判は再開されませんでした。裁判を延期した理由をルカは、「(ペリクスが)この道について相当詳しい知識を持っていたので」とつけ加えています。「この道」とは、ユダヤ人の律法遵守とパウロの「この道」(14)が、入り混じった状態を指しているのでしょう。そこにはペリクスだけではない混乱があり、当時のキリスト教を取り巻く状況は、そのようなものでした。ですから、パウロが律法を守っていると言明したことで、総督はパウロの無罪を確信したようです。しかし釈放とはなりません。裁判なしで無罪にすることはできないからです。大祭司など、ユダヤ人のメンツを考慮してのことと思われます。しかしこれも、主のご介入あってのことではなかったでしょうか。無罪釈放になったら、パウロのいのちは危険にさらされるのです。このような経緯をルカが聞いたのは、パウロが総督の好意的な配慮を受けて(23)、自由に会うことができるようになってからのことです。何度も読み直さなければ見えて来ませんが、慎重に慎重に、ルカは主のご介入をここに織り込みました。


U カイザリヤでの二年間を

 「そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよろしい。おりを見て、また呼び出そう』と言った」(23-25)パウロは裁判前に拘束されていた地下牢から、別の部屋に移されていたのではないかと思われます。友人たちと自由に会うことも認められました。ルカが福音書を執筆したとされるのも、その間のことです。この拘束は二年間続きました。二年間で福音書が完成したとは考えにくいので、これを予備的草稿、或いは原福音書だったろうとする人たちもいます。その間ペリクスは、パウロに妻ドルシラを引き会わせます。ドルシラはユダヤ地方の領主ヘロデ・アグリッパ一世の末娘で、まだ幼いうちに(6才)小アジヤの小国の皇太子と婚約しましたが、皇太子が割礼を受けてユダヤ教に改宗することを拒んで婚約は破棄され、やがてシリヤの小国の王と結婚、しかし離婚となってしまいます。こう見てきますと、そのときわずか16才だったそうですが、ドルシラは少女らしからぬ人生の変転を味わって来たと言えるでしょう。実はこの離婚は、ペリクスがユダヤ人魔術師を用いて介入し、自分が彼女と結婚したということだそうです。それはまるで、兄弟ピリポからその妻ヘロデヤを奪い取った、ヘロデ・アンティパスに似ているではありませんか。ヘロデはバプテスマのヨハネから厳しく非難されました。ペリクスにとってこれは3度目の結婚でしたが、パウロの話を聞きたいと願ったのは、どうもドルシラだったようです。不遇な人生の変転の中で、どこかでキリスト教に接したのでしょうか。彼女を覆う暗やみが見えるようです。

 パウロは、ペリクスとドルシラのそんないきさつを聞いていました。ヨハネがヘロデを非難したように、「正義と節制とやがて来る審判」について語ります。しかしこれは非難ではなく、イエスさまを信じる信仰にはそのことも要求されるのだと、これはパウロの信仰によるものだったと思われます。ルカも同席していたと思われますが、奇妙なことに、ルカの福音書にはヘロデとヨハネの記事は扱われておらず、この「正義と節制とやがて来る審判」のことについても、詳しくは述べていません。彼はそれを、パウロの書簡に委ねるほうがいいと判断したのでしょうか。

 彼らはそれを聞きたくなかったのでしょう。「今は帰ってよろしい。おりを見て、また呼び出そう」と話を打ち切りました。ドルシラは、ヘロデヤのようにパウロの首を狙いはしませんでしたが、後代の写本には、ペリクス転任のときに、パウロの釈放を阻止して恨みをはらしたとあります。20才にもなっていない少女が、うちに怒りを貯め込んで……。人間とは、恐ろしいものです。


V この福音を聞くのか?

 しかしペリクスは、パウロのことが気になっていました。幾度もパウロを呼び出して、話を聞きました。そこでどのような話が交わされたのか分かりません。ただペリクスは、パウロが巡り歩いた各地の様子を聞きたかっただけかも知れませんし、或いはパウロは、キリスト教のことで、ペリクスが聞きたいと思うことだけを話したのかも知れません。いづれにせよ、ペリクスが満足しないまま、二年という月日が過ぎていきました。聞く耳を持たないペリクスに、パウロが本気で福音を話したとは思われません。ルカが沈黙しているのは、パウロにとってもペリクスにとってもこの期間は、決して好ましいものではなかったからでしょう。それにもかかわらず、ペリクスはパウロを何回も呼び出しました。その理由をルカは、「パウロから金をもらいたい下心があった」(26)としています。保釈金のことなのでしょうか。カイザリヤには、先輩伝道者ピリポがいます。ルカはその家に泊まっていたと思われますが、そんな情報をルカは、ピリポから得ていたのかも知れません。当時、たびたび禁止令が出ていたにもかかわらず、賄賂はローマ高官にも普通のことだったようです。ルカは咎めていますが、ペリクスにしてみれば、さほどやましいことではなかったのでしょう。なにしろ、「奴隷の精神をもって王者の権力を揮った」総督です。パウロが「同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために」エルサレムに帰って来たと言ったことが、パウロを金持ちと勘違いさせたのでしょうか。ある人は、パウロが父親の相続財産を受けていたのではないかと想像していますが、どうでしょうか。私には、彼自身の天幕造りと、諸教会からの献金や、随伴している同労者たち、ピリポたちからの献金がすべてではなかったかと思われますが。いや、なによりも主ご自身が、パウロの生活を心配してくださったのでしょう。

 「二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた」(27) 59年にペリクスは解任されます。ユダヤ州総督にとってトゲのような事案を未解決のまま、しかも、後任の総督フェストにほとんど申し送りもないままにです。この二年という期間は、ペリクスを、少しは見られた正義を跡形もなく消し去り、「パウロから金をもらいたい」とか「ユダヤ人に恩を売ろうとして」という、品性劣悪な男におとしめてしまったようです。彼はパウロから「正義と節制と来るべき審判」を聞き、それを拒否しました。アテネの賢人たちが、「その話はまた聞くことにしよう」と去って行ったことを思い出します。それは、現代の私たちそのものではありませんか。今、私たちは問われようとしています。あなたはこの福音を聞くのか? それとも聞こうとしないのか? 聞いて欲しいと願います。


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