使徒行伝

70 主の励ましの中で
使徒 23:23−35
申命記  31:6−8
T パウロの護送計画を

 ユダヤ人が40人以上も集まって、パウロ暗殺の綿密な計画を練っています。「殺すまでは飲み食いしない」とまで(12-15)誓いを立てて。パウロに迫った危機は、エルサレムにいる限り消えることはないと判断したのでしょう。千人隊長は、パウロをカイザリヤに護送する決断をしました。彼のこの決断は、パウロをローマにという、主のご計画が実現に踏み出した第一歩でした。千人隊長は、ふたりの百人隊長を呼んで命じました。「今夜9時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人を整えよ。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに届けるように、馬の用意もさせた」(23-24)歩兵、騎兵、槍兵合わせて470人という兵士は、エルサレム守備隊の約半分に当たります。これほどの兵士を投入しなければ、この危機を回避することはできないと判断したのです。この時代のローマは、ローマの平和のためにと、ライン川や小アジヤに防衛線を敷いての戦闘に精力を費やしていましたから、守備戦には十分な経験を積んでいました。守るには攻撃側の数倍もの兵士が必要である、との認識に基づいたパウロ護送計画ではなかったかと思われます。まして、攻撃する者が暗殺者であるなら、守る側はさらにたいへんな苦労を強いられるでしょう。

 実際、もしユダヤ人たちにこの計画が洩れたら、恐らく彼らはいかなる手段を使ってでも、一行を襲ったでしょう。それだけの覚悟を決めていたようですから。そうした覚悟を聞いて千人隊長は、その夜のうちにパウロを移そうとしたのです。もっとも、ユダヤ人たちは誰一人、ローマ軍の動きに注意を払っていません。「殺すまでは飲み食いしない」とまで覚悟していたにしては、いかにものんびりしています。襲撃計画はパウロの甥の密告によって実行されなかったのですが、襲撃者たちがその後どうしたのか、報告がありません。ルカは彼らのその後について何も関心を示していませんが、恐らく、誓いは反故にされたのでしょう。ローマ兵士たちと彼らの意識の違いが、浮き彫りになっているようです。きっとそこにも、主のご介入があったのでしょう。


U エルサレムからカイザリヤに

 夜のうちに、地中海沿岸に広がるシャロン平原の入り口アントパトリスまで移動し、そこから歩兵と槍兵はエルサレムに引き上げました(31-32)。もっとも、アントパトリスはエルサレムから山道60?ですから、夜9時に出発してその夜のうちに着くことは不可能です。恐らく、ルカの計算ミスか、地理不案内によるのでしょう。普通に歩いて一日30キロメートルと言われますから、歩くのがプロの兵隊なら、日に50〜60キロメートルと考え、2日で走破するのはさほどむつかしいことではないようです。馬に乗ったパウロは騎兵隊に守られて、50キロメートル近くもあるカイザリヤに翌日の夜、到着しました。百人隊長がふたり、この任務につけられていますから(23)、アントパトリスから先は騎兵隊に……とは、司令官の計画だったのかも知れません。それにしても、目を見張る移動の仕方です。よほどの訓練がなければ無理でしょう。実戦で鍛えた司令官の、考え抜いての精鋭厳選と思われます。

 さて、百人隊長ふたりに、出発のため兵士たちを整えよと命じた千人隊長は、カイザリヤの総督ペリクスに手紙を書きました。「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下にごあいさつ申し上げます。この者が、ユダヤ人に捕らえられ、まさに殺されようとしていたとき、彼がローマ市民であることを知りましたので、私は兵隊を率いて行って、彼を助け出しました。それから、どんな理由で彼が訴えられたかを知ろうと思い、彼をユダヤ人の議会に出頭させました。その結果、彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関する問題のためで、処刑や投獄に当たる罪はないことがわかりました。しかし、この者に対する陰謀があるという情報を得ましたので、私はただちに彼を閣下のもとにお送りし、訴える者たちには、閣下の前で彼のことを訴えるようにと言い渡しておきました」(26-30)

 この手紙は、詳細にみれば、かなりいい加減なものです。パウロがローマ市民であると分かったのは、兵舎内でむち打ちにしようとしたときですし、議会開催を要求したのは、千人隊長自身でした。パウロ告訴の理由が律法に関する問題にあったなど、彼には最後まで分かりませんでしたから、適当な理由をつけても、とにかくパウロをカイザリヤに送ってしまおう、との意図がみえみえです。もっともこれは、ローマ軍の内部文書ですから、それをルカが閲覧できたとは考えられませんし、これは、パウロから確かめたいくつかのことを絡めて書いた、ルカの創作と見ていいでしょう。ルカはどうも、この司令官をあまり信用していなかったようです。パウロの問題に、一方の主役として、21:31からずっと関わって来た千人隊長でしたが、このときまで名前を出さなかったのは、そんなルカの意識を物語っているようです(ルカは彼の名前を知っていたから、手紙にそれを記すことができたのですが)。クラウデオとは、彼がローマ市民権を獲得したときの皇帝の名で、ルシヤ(リシアス)というギリシャ名は、海岸地方、もしくはサマリヤのギリシャ語を話す民族に多かったそうです。ユダヤ州に駐屯するローマ兵士の大半はここの出身者であると、ある注解書にありました。ともあれ、司令官は、カイザリヤにこの厄介な問題を押しつけてしまいます。


V 主の励ましの中で

 70人の騎兵隊は、ルシヤが用意させた馬に乗ったパウロを護送し、無事カイザリヤに着きました。それにしても、プロの兵士たちとともに、100キロメートル以上もの距離を馬に乗って走破したパウロには、目を見張ります。小柄で足が歪曲していたとか、目が不自由だったとか、いろいろと言われるパウロですが、意外なことです。騎兵隊隊長は、総督ペリクスにルシヤの手紙を渡します。その手紙を読んだ総督が、パウロにどの州の者かを尋ね、キリキヤ州の出であることが分かりました。そこは他州でしたが、シリヤなどローマの直轄地ではなく、自分がこの問題を裁いても不都合はないと判断したのでしょう。カイザリヤでの裁判が決定します。騎兵隊は少しの休憩の後、エルサレムに帰って行きました。もし、囚人がシリヤ保護地区の出身であったなら、彼をその州まで護送しなければなりません。もしかしたらこの騎兵隊に、その護送が命じられたかも知れないなどと想像しました。

 まさかとは思いますが、この総督アントニオ・ペリクスは、ローマの貴族で歴史家だったタキトゥスの年代記によりますと、クラウデオ帝の母アントニアによって解放された、奴隷だったそうです。アントニオという部族名が、それを物語っています。同じく解放された、兄弟ペラがクラウデオ帝の寵児だったことから、彼は、普通は騎士団に属さなければ任命されることのない総督になり、AD52-59年の7年間、ユダヤ総督を務めました。AD50年生まれと、彼よりわずかに遅く活躍したタキトゥスは、彼のことを「奴隷の精神をもって、王者の権力を揮った」と、痛烈に批判しています。ペリクスは、パウロから金(賄賂)をもらいたいという下心があった(24:26)ようです。ルカの目は、ルシヤにもペリクスにも厳しいのですが、きっと彼らは、そのような人物だったのでしょう。そのころユダヤでは、頻繁に反乱(暴動)が起こっていたようですが、彼はこれを無慈悲なやり方で鎮圧したため、穏健なユダヤ人たちを多く離反させ、暴動がますます増えていったのだそうです。

 「あなたを訴える者が来てから、よく聞くことにしよう」(35)と、ペリクスはひとまずパウロをヘロデの官邸に拘留しました。ヘロデの官邸とは妙な言い方ですが、カイザリヤのローマ総督官邸が父ヘロデ王の建てた私邸を流用していたため、こんな言い方をしたのでしょう。「守っておくように命じた」とありますが、これは留置または拘留が正確な訳で、新改訳が「守っておくように」と訳したのは、ルシヤの手紙にパウロは「無罪」とあったため、ペリクスもその上申を尊重したのだろうという、推測から生まれた訳ではなかったかと想像します。ことの真偽はともかく、カイザリヤにおいても、パウロは主の守りの中にありました。11-22節の記事に続いて、この記事もまた、「勇気をだしなさい」(23:11)とある、主の励ましから始まった出来事であると聞こえてくるようです。ありとあらゆるものが複雑に絡み合った現代ですが、そのすべてをはぎ取ってなお残る主の励ましを、私たちは聞き取って行かなければなりません。主は現代も、私たちのことを気に留めていてくださるのですから。 


使徒行伝目次