使徒行伝

66 主の証人と召されて
使徒 22:6−21
詩篇   4:1−8
T 主の福音を

 エルサレム神殿の外庭でユダヤ人暴徒に襲われ、あわや殺されそうになったとき、千人隊長率いるローマ守備隊に拘束されたパウロですが、兵舎入り口の階段の上で、許可を得て、弁明が始まりました。しかし、その弁明は、「私はガマリエルのもとで厳格な律法教育を受けた者である」、そして「私はキリスト者を迫害した者である」と、冒頭の二つだけです。しかし、彼には、そんな弁明より、今ここに集まっている大勢の人たちに、なんとしても話しておきたいことがありました。それは、彼らが決して聞きたくない思っている福音でした。今朝のテキストは、22:6からです。パウロとルカのメッセージを聞いていきたいと思います。

 「ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っているその方の声は聞き分けられませんでした。私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコにはいりました。」(6-11) パウロとルカのメッセージと言いましたが、このときルカは、恐らく、群衆の中でこれを聞いていました。拘束されているパウロと接触出来るようになったのは、カイザリヤに護送されてからと思われますので、このときのメッセージは、ほとんどがルカの編集によるものです。大半は9章にあるパウロの召命の記事と同じですが、イエスさまがご自分のことを「ナザレの」(8)と言っていること、そして、パウロの問いかけとそれに対するイエスさまの答えが、9章より一つ多く分割(9:5-6、22:8-10)されていることですが、そのいづれも、イエスさまを「主」としているところが、9章と違っています。9章では、「主」はパウロの問いかけに一回だけですが、22章では、パウロの二回の問いかけとイエスさまの答え(8)にも用いられています。ルカはローマでこの第二文書を執筆しているのですが、その違いを明らかに意図しつつ、表現を変えたと聞いていいでしょう。

 まず、意図して表現を変えた、そのメッセージから聞いていきましょう。


U 主への信仰告白

 これはパウロの召命の記事ではありません。召命の出来事を紹介しながら、主の福音を証ししようとしているのです。「ナザレの」と加えたのは、長老たちが十字架につけたあのイエスさまを、彼らに思い出させるためでした。会話を二回に分割したのは、イエスさまが「主」であると繰り返すためです。この記事には、語り手がキリスト者であるという設定は一切ないのですが、それにもかかわらず、イエスさまを「主」と呼んではばかりません。恐らく、パウロ自身の言い方は、ルカの表現よりもっと過激だったと想像します。大混乱の直後でもあり、みなが拳を振り上げながら聞いているのですから、その迫力には、断じて彼らに負けないものがあったでしょう。そんなパウロに比べ、ルカの表現は穏やかです。ルカの読者は各地に建てられた異邦人教会の人たちですが、しかし、イエスさまが「主」であることに変わりありません。パウロを福音宣教に、そして、異邦人たちを教会に招いてくださったお方は、イエスさまでした。パウロが本当に戦うべき相手、イエスさまを十字架にかけた長老たちに証言したかった第一の点は、このことです。弁明など、どうでもいいのです。十字架のイエスさまこそ私の主である。これは、パウロにとっても、ルカにとっても、異邦人教会の人たち、さらに現代の私たちにとっても、断じてゆずることのできない信仰告白です。覚えておかなければなりません。

 もうひとつ、聞いておかなければならないことがあります。それは、9章と22章のパウロ召命の記事が、ほとんど同じであるという点です。「同じ」ですが、しかし、パウロとルカの意識には違いがあります。パウロが聞いて欲しいと願っている人たちは、ごく一部の長老たちを除いて、パウロの召命の経緯を全く知らない人たちです。しかし、ルカの読者たちは、この第二文書を読む人たちです。きっと彼らは、同じことを繰り返していると思いながら、ここを読むでしょう。私たちにしてもそうです。しかしルカはこれを、パウロのメッセージとして記録しました。9章が三人称で語られているのに対し、22章は一人称になっています。これはパウロのメッセージであると、ルカは、主から召し出された福音宣教者の証として、これを書いたのです。パウロはこのように召されたと、証言したのです。9章と22章の二つの記事を重ねることで、それが事実であると強調しているのです。パウロにとって、それは自分に起こった出来事ですが、ルカはそれを繰り返すことで、証言したと聞いていいでしょう。ルカは自分のことを何ひとつ記していませんが、彼自身も恐らく、アンテオケでその証言を聞き、主を信じました。ルカはパウロの弟子でした。


V 主の証人と召されて

 パウロとルカのメッセージの、もう二つ聞いておかなければなりません。12-21節からです。一つは、主からパウロに遣わされたアナニヤの記事です。彼が「兄弟サウロ。見えるようになりなさい」と言いますと、パウロの目が見えるようになりました。彼はさらに言います。「わたしたちの先祖の神が、あなたを選んでみ旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人となるためである。そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」(14-16・口語訳) この口語訳が一番整理されていて、分かりやすいでしょう。9章とは違った仕方で語られています。イエスさまを「先祖の神」と言い換えていますが、ユダヤ人は選びの民であるという特権、預言者や律法を通して神さまの御旨を知り得るとの認識が、徹底的にイエスさまを基準に、一方的な恵みとして、解釈し直されています。「かの義人」とは、イエスさまのことでした。これはアナニヤのメッセージなのか、パウロのものか、或いはルカの……、それをもはや問うことはできません。しかし、パウロがイエスさまから、主の十字架とよみがえりの証人として召し出されたことは、疑いようがありません。今、この大勢のユダヤ人、律法学者、長老たちが聞いている中で、パウロの立ち位置がはっきりしてきました。パウロがバプテスマを受けたことも、彼らの憎悪につながったのでしょう。彼らはパウロだけでなく、福音を拒否したのです。

 それでもまだ彼らは、「先祖の神」がパウロに語った「かの義人」であると、充分に理解がいかなかったのでしょうか。それは預言者のことかも知れないと、まだ静かに聞いています。

 パウロはエルサレムの神殿に入って、祈りました。9章にはないのですが、主とパウロの会話が記されています。「急いで早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです」「主よ。私がどの会堂でも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです」「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」(18-21)「主にお会いした」(18)とあります。この祈りは、イエスさまへの祈りでした。この会話は、イエスさまとのものです。すると、神殿はイエスさまのおられるところという認識になります。ユダヤ人を意識してか、ここにイエスさまの名前は出てきませんが、パウロにとってイエスさまは先祖の神さまであり、ユダヤ人たちが聖なる書物を通して我らの神と認識して来た神さまと、同一のお方でした。しかしユダヤ人たちは、断じてそれを認めようとはしません。「わたしについてのあなたのあかしを受け入れない」とは、そのことを意味しています。パウロが異邦人への使徒として遣わされたのは、彼らの拒否によるものでした。ここに至ってユダヤ人たちは、福音の敵となりました。しかし、パウロは、この状況下において、イエスさまの福音を証ししたのです。私たちもそのように、拒否してやまない現代人への、福音の証人となろうではありませんか。