使徒行伝

61 主に仕える決意を
使徒 20:25−38
ヨシュア 24:14−15
T 主にゆだねられた責務を

 ミレトに駆けつけて来た、エペソ教会の長老たちへの決別説教、その続きです。前回に引き続き、パウロのメッセージの中に織り交ぜられた、ルカのメッセージも聞いていきましょう。

 「皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています」(25) パウロは今、エルサレムに向けて航海中です。前回彼は、そこで私になわめと苦しみが待っていると、聖霊に示されたことを明らかにしました。そんなエルサレム行きに、「二度と私の顔を見ることはない」とパウロは言い、彼ら長老たちも、確かにそんなことが起こるだろうと聞きました。しかし、38節に「特に心を痛めた」とあるのに、それでも彼らはパウロを送り出しました。彼らはパウロを、祈りつつ送り出したのです。パウロと長老たちの、強烈な決意が見えるようではありませんか。

 「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」(26-27) これは、福音宣教に関しての、長老たちへの第一の引き継ぎなのでしょう。28節で彼らは「監督」と呼ばれていますが、当時は教会組織など出来上がっていたわけではなく、指導者たちに、長老、監督、執事、教師、牧師などという区別はなく、そのときどきで、言い換えられていたようです。しかし、彼らはエペソ教会の指導者に立てられました。その彼らが為さなければならないことのひとつが、ここに語られているのです。「私は、神のご計画の全体を、余すところなく知らせておいた」と、パウロはこの働きの重要性をはっきりさせました。その責任を、今度は長老たちが引き継がなければなりません。福音の宣教責任です。もし誰かが聞いていないと言うなら、その責任はあなたがたにかかって来る。そうならないように宣べ伝えなさい。しかし、伝えたなら、その責任は聞いた者にある。パウロはその意味で、福音宣教の責務を果たして来ました。あなたがたもそのように働きなさいと言われているのです。


U 見張り台に立って

 しかし、彼らの働きは、宣教だけではありません。第二に言われるのは、教会の人たちを牧する、牧師の務めと言っていいでしょう。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」(28-30) 彼らはまず最初に、自分自身のことに気を配らなければなりません。それはクリスチャンたちにとって当然のことでした。自分がイエスさまにしっかりと結びついていて、初めて他の人たちにも目を届かせることが出来るのです。

 監督とは、もともと「気をつける、注意をはらう」という動詞から来たもので、「番人」を意味しますから、パウロはその意味で用いたのでしょう。ハバクク書にこうあります。「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(2:1) 自分自身と他の人たちを、主の目で番するのです。ですからパウロは、ただ「教会を」と言わずに、「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を」と言ったのです。主ご自身が見張り所に立つその任を、ご自分が立てた番人にゆだねられた。その点を、しっかりと理解しておかねばなりません。主の目で気を配るなら、主の教会に別の者たちが入り込んで来たことに気がつくであろう。群れを荒らし回る凶暴な狼、それはあなたがた自身の中からも出るであろうと言われます。恐らく、外部から入って来る危険は、発見しやすいでしょう。パウロはそこに、宿敵ユダヤ人を念頭に置いているのかも知れません。長老たちはまだ気がついていませんが、数ヶ月前、パウロがエペソを離れた直後から、彼らは教会に入り込んでいたと思われます。しかし、教会内部から、しかも、長老たちや信頼している人々が福音とは別のものに囚われるなら、その異なる部分を見つけ出すことは、至難のわざと言えるでしょう。いづれ彼らは、エペソ教会の最も重要なもの、はじめの愛(黙示録2:4)から離れていくことになります。それはエペソ教会だけの問題ではなく、現代の私たちにとっても、格別に重要な問題ではないでしょうか。イエスさまは言われました。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:12) 主の教会にそんなことは無縁だとは、決して言い切れません。教会だから、愛あるところだから、狙われるのです。

 長老たちは、非常に重い課題を抱えました。祈り、みことばに聞く。それは、主ご自身の助けなしには、決して負いきれるものではありません。しかし彼らは、その任を負いました。しかし、その決心は、彼らエペソ教会の長老たちだけに負わされたものでしょうか。考えさせられます。


V 主に仕える決意を

 「ですから、目をさましていなさい。私が3年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」(31-32) 「涙とともに」、そこに祈りがあると、前回聞きました。そして、もうひとつ、「あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねる」ということにも、前回少しだけ触れました。パウロの教えは、徹底的にみことばに基づいているのです。ベレヤの教会(17:11)、トロアスの教会(20:7-12)でもそうでしたし、それがパウロの根本的な福音宣教の方法でした。長老たちが主にゆだねられた、なかんづく、主の恵みのみことばにゆだねられた。それは、パウロがそうだったように、彼ら自身がみことばと向き合い、みことばに教えられることで、牧する人たちをみことばによって成長させ、主の御国へと送り出すためでありました。

 それは、現代人にとって格別に重要な問題を含んでいます。なぜなら、パウロが問題にした御国とは、イエスさまにお会いする終末のことであり、今日の私たちの目で見るなら、当時のキリスト者は再臨の主にお会いすることはなかったわけですから、信仰を守りつつ眠りに着くことが出来ましたが、しかし今、その日は確実に近づいているのです。もしかしたら、この目の黒いうちにイエスさまを迎えることになるかも知れないこの時代に、妨げる者の活動も思いっきり激しくなってくると、覚悟しなければならないでしょう。今、私たちは、この長老たちより、数倍もの覚悟が問われているのです。みことばに聞くことなしには、終末のこの時代を乗り越えていくことは出来ません。終末には、激しい苦難の時代が伴うと、イエスさまの予告にあるからです(マタイ24章)。が、しかし、長老たちとともに、私たちも主の恵みのみことばにゆだねられていると、覚えたいのです。

 パウロの決別説教の最後の部分は、長老たちの日常の姿勢にも及びます。「私は、金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人々のためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるより与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(33-35) 宣教も牧会も日常のことなのです。自分の益だけを優先させるようなことがあってはならない。他の人たちのために、弱い人たちのために、受けるよりも与えるほうが幸いと……。現代の世知辛い風潮の中で、このような価値観を覚えておかなければなりません。それこそ主の価値観であって、天に宝を積む、その価値観に生きるということなのですから。涙とともに、祈りつつパウロを見送ったエペソ教会の長老たちの、その交わりと信仰者ならではの決意を、私たちも引き継ぎたいと願います。