使徒行伝

6 イエスさまの教会が
使徒  2:37−47
イザヤ 66:18−21
T 心の琴線に

 ペテロの説教は、神さまが主とされキリストとされたイエスさまを、「あなたがたは十字架につけたのです」(36)との問いかけで終わりました。ペテロには、今、自分たちに聖霊を注がれたお方が、必ずや彼らの心を開き、この問いかけに応える者としてくださる、という確信があったのでしょう。主は、その期待に応えてくださいました。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか』」(37)と、口々に言い始めました。彼らは弟子たちを、「兄弟たち」と呼びかけています。これは、ペテロが彼らに、「兄弟たちよ」と呼びかけた(29)ことに応えたものなのでしょう。それは、現代にまで続く、麗しい伝統の始まりでした。「教会は主の家族である」という初期教会の意識が、この呼び名を生み出したのでしょうか。

 実は、ペテロの説教の中で、イエスさまのよみがえりについては取り扱いが多く、かなり深く切り込んだ描写が見られます。しかし、イエスさまのもう一つの中心・十字架については、簡単にすませ、ほとんど語られていません。「なぜ?」と、疑問を感じる方もおられるのではないでしょうか。私自身もそう感じていました。ところが、「あなたがたは十字架につけた」(36)と、その部分に耳を澄ませますと、人々の罪がイエスさまを十字架にかけてしまったという、これこそが十字架の中心であると、これは、まさに彼らの心の琴線に触れる、鋭い問いかけであったと聞こえてきます。ペテロはほとんど説明らしいことを何も言っていませんが、仮に詳細な説明があったとしても、それだけでは、十字架が人々にどんな関わりがあるのか伝わっていかなかったでしょう。ところがペテロはここで、主ご自身が語りかけるように語り、人々はそのお方の前に立たされていると感じたのです。だからこそ、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と求めて来たのでしょう。ペテロはこの説教を、聖霊の助けの中で行なったと、改めて思わされます。そのお方の前に立たされているのは、もちろん私たちでもあります。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」(38-39)というペテロの答えは、私たちにも向けられていると聞いていきたいのです。


U 御霊の実を頂いて

 「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた」(40-41) これはルカの補足ですが、「救われなさい」は、ペテロの説教の結びのことばであると言っているのでしょう。新改訳では「のがれなさい」という別の訳があると注が付けられていますが、「この曲がった時代」が、《恐らくサタンに曲げられて堕落し、悔い改めとバプテスマを促す呼びかけに応えようとしない人(ユダヤ人)たちが大勢を占める、そんな時代を意味するのであろう》と洞察した或る注解者が、《「のがれなさい」は、そんな決断を拒む彼らとの分離を意味する》と言っているのは、まさにその通りかと思われます。「救い」とは、罪を赦されて神さまとの正常な交わりに入ることですが、ルカは、救いを受けた人たちが、その救いにふさわしく、分離された者の歩みを選択していくことを勧めているのでしょう。「曲がった時代」と聞きますと、彼らユダヤ人社会だけではなく、神さまから遠く離れて殺伐とした現代世相を思い浮かべますが、イエスさまの福音に生きるという方向を選んだ者たちにとって、そこからの決別は、まさに「救い」なのではないでしょうか。パウロのことばを聞きましょう。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分派、遊興、そういった類のものです。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」(ガラテヤ5:19-25) パウロの弟子ルカの脳裏に、こんなことばがあったのかとも想像します。

 「その日、三千人ほどが弟子に加えられた」 概数としても驚かされる数字ですが、それだけの勢いをもって、今、エルサレム教会・初代のキリスト教会が誕生したのです。


V イエスさまの教会が

 「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(42-47) これは、誕生したばかりの初代教会に関する、ルカの覚え書きなのでしょう。付記と言っていい。もともとはっきりした切れ目のないところですが、岩波訳(ギリシャ語定本では26版以後)のように、42節からとするのが妥当と思われます。

 この覚え書きは、極めて簡潔な文章ですが、初代教会の様子を生き生きと伝えてくれます。いくつかのことを取り上げておかなければなりません。第一は、「教え」「交わり」「パン裂き」「祈り」などの言葉が、誕生したばかりのこの群れだけで用いられた「教団用語」(教団ということばを用いるのが最適、教会ということばはまだ出てこない)だったということです。ユダヤ教の名残を多く感じさせますが、説教も賛美も祈りも聖餐式やバプテスマ(つまり、礼拝が毎日行われていた)、共同生活や日々の食事すらも、キリストの群れらしくあろうと、懸命な積み重ねをしている様子が伝わってきます。第二に、今や12人の使徒たちがその新しい群れを統括し、イエスさまの役割を果たそうとしているということです。「奇跡と徴」は、イエスさまがメシアであることのあかしでしたが、今や使徒たちがそのあかしを引き継いでいるのです。「一同の心に恐れが生じ」とは、決して恐怖のことではなく、使徒たちの統括を、イエスさまのなされることと畏れ敬いつつ、受け入れた様子を言っているのでしょう。それは、新教団の向かう信仰内容と言っていいのではないでしょうか。この教団は、まさにキリストの教会なのです。第三に見ておきたいことは、彼らが共同生活をしていたという点です。「いっさいの物を共有していた」とあるのは、彼らの「交わり」の特徴的な部分ですが、これまで言われて来たように、私有財産の放棄が新教団の原則(クムラン教団がそうだった)になっていたということではなく、教団内の貧しい人たちを支えるために、持っている人が進んでその持ち物を提供したという、これは、「愛の交わり」と呼ばれるべき、信仰姿勢でした。今までもイエスさまを中心に、弟子たちの群れは生活共同体でしたが、殊更ここで「信仰共同体」とも言える形態に触れているのは、誕生したエルサレム教会が、海外から帰国した貧しいユダヤ人たちを多く抱えていたことを意味しているのでしょう。第四にもう一つのことを取り上げておきたいのですが、46節にある「喜び」です。これはペテロの説教に引用されたヨエル書にもあるもので(26)、主の御国でイエスさまとともに食卓につく、その喜びが言われているのです。この教団は、地上に生まれた一個の単なる宗教教団ではなく、天上に住まう主の招きがこの教団を立ち上げたのだと、ルカのメッセージが聞こえて来るではありませんか。