使徒行伝

59 すべてに勝る礼拝を
使徒 20:1−12
イザヤ 60:1−3
I 先を急ぎつつも

 「騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤヘ向かって出発した」(1) 3年もの間働いたエペソを後にします。先にテモテとエラストを送り出していましたが(19:22)、事情が片付いたのか、ようやくの出発です。第一コリント16:8によると、出発は55年のペンテコステ直後だったようです。前回はトロアスからマケドニヤの港町サモトラケに上陸、ピリピに向かいましたが、今回もそのコースを辿ったようです。きっと、エペソからトロアスに向かう道々、ベルガモやスミルナなどを訪れ、アジヤ州に建てられた、新しいいくつかの教会に立ち寄ったことでしょう。トロアスでは、新しい教会が誕生していました(Uコリント2:12参照)。「その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た」(2)とあります。きっと、ピリピやペレヤやテサロニケの教会を巡回して廻ったのでしょう。ヨーロッパに渡った時の最初の働きであり、ユダヤ人の反対や迫害もあって、非常に苦労したところでしたが、そこには家の教会が出来ていました。まだ少人数でしたが、そんなことには負けないほど意欲に燃えており、暖かい交わりが続いていたようです。ピリピに残ったルカの働きに依るところ大と思われますが、彼はすでに立ち去った後でした。だからでしょうか、ルカは、この地のパウロ訪間が短期間だったにもかかわらず、「多くの勧めをして兄弟たちを励ました」と記します。パウロだけでなく、ルカにとっても、忘れることの出来ないその地の教会だったようです。更にパウロは、アドリヤ海に面したイルリコまで足を伸ばし、そこに新しい群れを造り上げています(ロマ15:19)。

 彼はギリシヤに向かいました。「パウロはここで三ヶ月を過ごした」(3)は、コリントのことでしょう。この期間にパウロは、ローマ教会へ書簡を送ります。パウロの視野には、ローマが入っていました(19:21)。ここに来る前に、アルタ湾の大都市ニコポリスにも新しい集会を作っていますが(テトス12)、奇妙なことに、その働きや教会訪問の記述はなく、記事は極端なまでに短く、すでに一行に合流していたルカは(5)、先を急いでいるようです。いや、急いでいたのは、ルカではなく、パウロ自身なのでしょう。帰途、エペソにも立ち寄っていません。「できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいた」(16)とある、その目的のためでした。


U トロアス教会で

 パウロは、ギリシヤから(恐らく前回同様、ケンクレヤから)エペソに向けて船出しようとしたのですが、出発間際に、恐らく、船中での襲撃を計画していたユダヤ人の陰謀が判明します。彼らは前回、コリント市中でパウロを襲撃し(18:12-17)、総督ガリオに訴え出たところ、門前払いされたため、今回は襲撃方法を変えたものと思われます。パウロは、マケドニヤ経由で帰途に着くよう計画を変更しました。いつもパウロは、綿密な計画を立てますが、変更を余儀なくされています。そこには神さまのご介人があり、パウロはその都度、その指示に従って来ました。今回もそうなのでしょう。同行者たちが増えています。「プロの子ベレヤ人ソバテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人カサイ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモ」(4)と。ソバテロやアリスタルコなど馴染みある名前ですが、この人たちは、それぞれの教会で集めた献金を、エルサレムに届ける役目を担った人たちと思われます。「彼らは先発して、トロアスで私たちを待っていた」(5)と、ルカの再登場です。「種なしパンの祝いが過ぎてから、私たちはピリピから船出し、5日かかってトロアスで彼らと落ち合い、そこに7日間滞在した」(6)とありますが、種なしパンの祝いは過越しの祭りに続くもので、ユダヤ人にとっては極めて重要な祭りでした。キリスト者にとっても同じでしたから、その祭りをピリピの親しい人たちと一緒に祝い、それからトロアスに行き、先発隊と合流しました。

 トロアスには、数ヶ月前にパウロ自身が働いて出来た教会がありましたから、船の積荷作業のためか、そこで船待ちのため一週間滞在します。その間のことにルカは何も触れていませんが、数ヶ月前と同じように、宣教のわざに励んでいたのでしょう。働き人も9人に増えています。最初トロアスに来たとき、主の導きが分からず、かなりの時間為すこともなく過ごしていましたが、トロアス通過も度重なってきますと、一週間といえども、ばかにはなりません。教会の人たちも加わって、相当の成果を上げ、集会にはかなりの人数が集まっていました。

 そして週の初めの日、日曜日になりました。「私たちはパンを裂くために集まった」(フ)とありますから、これは聖餐式です。つまり、日曜礼拝が行われたと言っていいでしょう。初期教会が日曜礼拝をという、新約聖書唯一の証言です。他にも、Tコリント16:2などから推論することは出来ますが……。


V すべてに勝る礼拝を

 トロアス教会での日曜礼拝は、恐らく、夕方持たれたのでしょう。「そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった」(7ー8)とあります。きっと教会には労働者が多く、日中に集まることが出来なかったのでは、と思われます。屋上の間とは、パレスチナユダヤ人の家に多いのですが、石造りの家の屋根に造った簡易な一部屋のことです。三階(9)とありますから、頑丈な石造りの家だったのでしょう。灯火とはほとんどたいまつに近く、ガラスなどなく、窓も板戸で閉じるだけでしたから、その窓を開け放し、たいまつを何本も燃やして灯りにしています。部屋の空気がよどんできても、不思議ではありません。しかも、パウロ先生の話は延々と続いています。Tコリント10:10には、パウロの話し下手が記されています。昼間の激しい労働もあって、眠くなっても当然という状況がそろっての中、「ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた」(9)この若者は、きっと、眠気防止のため窓に腰掛けていたのでしょう。それほど熱心に、パウロの話を聞いていました。トロアス教会の人たちの、まっすぐな姿勢が伝わって来るではありませんか。

 みんな、びっくりしたでしょうね。けれども、そこにルカがいたことを忘れてはなりません。彼は医者です。すぐに診たでしょうが、手遅れでした。やがてパウロも降りて来ました。みんなが泣き悲しんでいる中で、パウロは彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて言いました。「心配することはない。まだいのちがあります」(10)「まだいのちがある」、これを仮死状態と聞く人たちがいますが、そうではありません。ルカはこれを、自分が死亡と診断した者への奇跡として、礼拝中に行われた聖餐式とパウロのメッセージに絡めながら、生ける主の為し給うた不思議として記したのです。しかし、ユテコはまだ、起き上がって元気に歩き出したわけではありません。彼が間違いなく生き返ったと人々が確認したのは、パウロたちが出発した後のことです。「人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた」(12)と、この記事は締めくくられます。一行は後に報告としてそれを聞いたと思われますが、その報告には、「慰め」も添えられていました。そしてルカは、それをそのままここに書き加えました。彼らの慰めは、パウロたち一行にとっても大きな慰めであり、励ましであったことでしょう。

 しかし、ここで驚かされるのですが、そんな騒動の中で、パウロは再び屋上の間に上がって行き、泣き悲しんでいた人たちも礼拝の場に戻り、パウロの話の続きに聞き入ったのです。「そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した」(11)とあります。それほどの礼拝が行われていたのです。現代の私たちは、それほどの礼拝を行なっているでしょうか。主を礼拝するとはそういうことなのだと、思いを新たにしたいではありませんか。