使徒行伝

56 失われた人たちを
使徒 19:1−7
詩篇 119:169−176
T 福音宣T 神さまのご計画が

 「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た」(1) 優れた伝道者たちがすれ違いました。ルカはこのすれ違いを惜しいと感じたでしょうか。この一文を挿入した背景には、彼のそんな意識が感じられます。しかし、神さまのご計画は、人間の思惑をはるかに超えているのです。このとき会えなかった二人は、1年後だったでしょうか、パウロがまだエペソに留まっている間に、ドッキングしました。パウロはエペソに3年の間、滞在していたからです。もっとも、その記事は、パウロが送ったコリント第一の手紙(16:8)に、わずかに記されるだけですが……。

 神さまが立てられた計画は、アポロやパウロのためだったのでしょうか? それとも、アポロがエペソで導いた?弟子たちのため、だったのでしょうか。これを明らかにするためには、少々回り道が必要です。

 エペソに着いたパウロは、その弟子たちに会いました(1)。「信じたとき、聖霊を受けましたか。いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」(2) この弟子たちは、アポロが教えた人たちだったのかも知れません。しかし、それには二つの疑問が残ります。一つは、彼らがユダヤ人会堂ともキリスト者の集会ともつながりを持っていなかったという点。そしてもう一つは、アポロは「霊に燃え」(18:25)と、聖霊を受けた者と思われるのに、彼らは、そんなことは聞いたことがないと答えている点です。もっとも、「霊に燃え」が聖霊を受けた者に相当するかどうかは、反対意見もあって、確かではありません。そんな疑問もあって、ある人たちは、彼らがバプテスマのヨハネの系統に属するのではないかと推測し、また、ある注解者は、どこにも属さない、片足をユダヤ教に片足はキリスト教にという、中間派の人たちではなかったか、と想像しています。中間派は確かに存在していたでしょう。それも、いろいろな中間派が……。いずれにせよ、パウロは「弟子」と呼ばれる(自称?)人たちに出会いました。どんなふうに出会ったのか、ルカは何も触れていませんので、想像するだけですが、恐らく通りに面した家で、自分たちだけの集会を開いていたのでしょう。賛美と旧約聖書の朗読と、そして、メッセージも。キリスト教会がそうであったように、彼らにはシナゴグ(ユダヤ人会堂)という見本がありました。たまたまパウロは、そこを通りかかったのでしょうか。興味を惹かれて中を覗き、声をかけたのかも知れません。いろいろなやりとりがあって、その受け答えに不自然なところを感じ、質問しました。「信じたとき、聖霊を受けましたか?」


U ある出会いの中に

 「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」「誰の中へとバプテスマを施されたのか」「ヨハネの中へというバプテスマです」(2-3・直訳) 彼らが「聖霊のことは、聞いたことがない」と言ったのは、聖霊のことを知らないというのではありません。旧約聖書の預言者たちや洗礼者ヨハネも、聖霊のことに触れているからです。そうではなく、イエスさまを信じる者に与えられる聖霊授与の約束を、「聞いたことがない」と言ったのでしょう。文字通りにですと、彼らは「イエスさまの中へと招かれるバプテスマ」を全く知りませんでした。彼らには、クリスチャンたちと接触した痕跡が見当たりません。初期クリスチャンたちにとって、信じることとと聖霊に満たされるということは、当たり前のことでした。ルカが「弟子」と呼んでいますので、少なくとも、イエスさまをメシアであると信じていたとは思われますが、きっと彼らは、シナゴグにも出入りしていなかったのでしょう。もし出入りしていたなら、クリスチャンと接触する機会があったはずです。アクラとプリスキラはその時、シナゴグで礼拝を守っていましたし、シナゴグを宣教の重要拠点としていたパウロのようなケースもあります。彼らはまるで、クムランの洞窟に隠棲していた修道者エッセネ派のように、自分たちの交わりだけに引きこもっていたのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、そこから出たであろうと言われています。ヨハネ教団と言われる群れがほとんどその姿を消したのは、ヨハネがマケルスの砦で処刑されたときですから、20数年も前のことでした。よくもまあ、そんな彼らの集会が、細々とでもこうして続いていたと感心します。そして、その間、ユダヤ人たちが彼らに全く関心を向けていなかったということも、驚きではありませんか。

 そんな彼らに、パウロが出会いました。「出会った」とは、ギリシャの哲人・アルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見したときの、「発見」と同じことばです。そこには、「偶然」ではない、血のにじむような苦労があって「見つけた」という喜び、感激が見られます。それはきっと、パウロが苦労して探し出したということではなく、神さまが待って待って待ち抜いて、パウロに引き合わせたというニュアンスなのでしょう。ルカの記述には、神さまがパウロと彼らを引き合わせたという、熱い思いが込められているようです。だから、出会いの様子など、詳しく記す必要はありませんでした。アポロとパウロのすれ違い、それは、ヨハネの弟子たちがイエスさまの弟子になるために、神さまが演出された作品だったのです。アクラとプリスキラによって変えられて間もないアポロには、この12人の弟子たちは負いきれない重荷であろうと、神さまの尊いご配慮だったように思われます。


V 失われた人たちを

 彼らの集会で、パウロはメッセージを取り次ぎました。それはまさに、彼らが聞きたいと願ったメッセージでした。その一部(多分)を、ルカは記録しました。「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」(4) これが熱血漢アポロだったら、イエスさまのことだけを話したのではと想像してしまいます。ここでは、ヨハネのことだけが取り上げられています。もちろんパウロは、イエスさまのことも話しました。しかし、ルカは、パウロのメッセージの中で、この部分が大切と判断したのです。それも、こんなに短いことばで、彼らにとって最も中心的なところを語っていると……。ヨハネは、彼自身が言っているように、「『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声」(ヨハネ1:23、イザヤ40:3)でした。それは、彼らも十分に承知していたでしょう。それがヨハネの存在価値だったからです。ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれますが、ヨハネはこれを、イエスさまのために、と言っています。「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです」(同1:30-31)

 ですからルカは、ヨハネのバプテスマを、イエスさまを信じて受けるバプテスマにつなげるものと受け止めました。彼らがそう聞いたであろうとばかりに……。その連続性こそ、パウロが語ったメッセージの核心でした。伝道者にして神学者たる、パウロならではのメッセージです。事実、彼らはすぐに「主イエスの御名によってバプテスマを受け」(5)ました。恐らくパウロは、それ以上のことを話すことはなかったでしょう。「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで12人ほどであった」(6-7)とあります。世界の片隅にひっそりと忘れられていた人たちが、神さまに見い出されたのです。主の民として。

 ルカは、彼の福音書にこう記しました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:10) たった12人でしたが、この人たちをイエスさまは惜しんでくださった。宣教の広がりを意識し始めた異邦人教会に、ルカは、忘れられていた人たちをも主が顧みてくださったと、細やかな宣教の大切さを発信したのではないでしょうか。パウロとアポロのすれ違いの中にあった、主のご配慮を通して。