使徒行伝

53 主がともにいて
使徒 18:1−18
申命記   31:8
T コリントへ

 「その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った」(1) コリントは、ローマ軍によって破壊された、古コリント跡地に建てられた新しい町ですが、アカヤ州(ギリシャ南部−北部はマケドニヤ、併せてギリシャ)を二分する地峡(幅約8`−コリントはその地峡上にあった)を横断するため、道路と船運搬車を造ってイオニア海とエーゲ海を結んだことから、アカヤ州第一の都市、地中海世界の中心地になっていました。アテネはその栄光を、コリントに明け渡していたと言えましょう。

 新しい町が建てられて150年ほど経っていましたが、コリントには、あらゆる種類の商工業が栄え、また、犯罪、不道徳、外来の諸宗教、その迷信までもが、コリントの町を彩っていました。いくつかのユダヤ人会堂があったのは、いうまでもありません。まだ到着していないシラスとテモテを待ちながら、パウロはまず、ユダヤ人と接触し、そんな中でアクラとプリスキラ夫妻に出会いました。「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった」(2-3) ユダヤ人とギリシャ人の間には、利害関係による積年の摩擦があり、それが原因で、ローマ市内でたびたび暴動が繰り返されました。それは、ローマにとって、厄介なユダヤ人問題、(別の説では、ユダヤ教ユダヤ人とキリスト教ユダヤ人との摩擦)、となっていたようです。ユダヤ人の退去命令は何度もあるのですが、クラウデオ帝のこれは、多分、AD45年のことです。アクラとプリスキラは、そのころローマで幅広い商いを営んでいたのでしょう。コリントに移って3年半ほどで、結構大きな家を構えていますが、それは、彼らが有能な商売人だったことを意味しています。そんな彼らが、パウロと出会いました。恐らく、ユダヤ人会堂で。彼らは、ローマにいたときからイエスさまを信じていたようですが、ユダヤ人会堂で礼拝を守っていたのは、まだ教会がなかったからでしょう。ですから、彼らが出会ってすぐパウロを自分たちの家に誘ったのは、自然なことでした。天幕作りという職業が同じこともあって、パウロは彼らの家に住み込みました。古来、ラビ(ユダヤ教教師)たちは、教師であると同時に、別に何らかの職業を持つことが義務づけらていましたから、自分の食い扶持は自分でというスタンスを、パウロは守り続けたのでしょう。

 アクラとプリスキラの家に住み、彼らに助けられながら、パウロは、安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシャ人たちに福音を宣べ伝えました(4)。


U コリント教会の誕生

 「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した」(5) このとき、シラスとテモテは、ピリピ教会から献金を託されて来たようです(ピリピ4:15)。アクラとプリスキラ、それにシラスとテモテも加わってパウロを支えたのでしょうが、ピリピ教会や各地の兄弟たちの祈りに支えられて、パウロは宣教の働きに専念できるようになったのでしょう。何よりも、主ご自身の支えがあって……。みことばを教えることと、イエスさまがキリストであると宣言することは、パウロの宣教活動の中心です。みことばは福音を指し、その福音の要は、イエスさまだったからです。そしてそれは、ユダヤ人が最も警戒していた事柄でした。エルサレムの会堂、とりわけテサロニケの会堂から、パウロを警戒するようにとの通達が届いていたのでしょう。パウロが宣教活動に力をいれ始めますと、彼らは、たちまちパウロに激しく反抗してきました。「反抗して暴言を吐いた」(6)とは、ピリピやテサロニケのユダヤ人たちのように暴動を起こし、徒党を組んでパウロたちを排除する、そんな動きにつながる激しいものだったのでしょう。そんな動きを察したのでしょうか、パウロは、ただちにその会堂を退去することにします。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」(6)

 「そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは一家をあげて主を信じた。また多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた」(7-8) 会堂を去ったパウロは、アクラとプリスキラの家から、同じ市内にあるテテオ・ユストの家に移り住みました。隣には別の会堂がありましたから、パウロは、それを視野に移転したのでしょう。それは、ユダヤ人への挑戦であり、異邦人使徒として新しい働きに着手するためでもありました。その会堂には多数の、恐らく、新しいコリント建設のために皇帝が植民させた、解放奴隷の子孫と思われる人たちがいました。ロマ書やコリント書には何人ものラテン系の人たちの名前が記されていますが、テテオ・ユストもその中の一人と思われます。パウロは、会堂管理者クリスポをはじめ、イエスさまを信じたたくさんのそんな人たちに、次々にバプテスマを授けていきます。テテオ・ユストの家に、異邦人を中心とするコリント教会が誕生しました。


V 主がともにいて

 「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた」(9-11) Tコリント2:3に「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」とありますが、このときのことを言ったようです。一カ所に一年半も! パウロにしては珍しいことです。ユダヤ人の迫害もなく……。しかし、パウロは彼らの動きに注目していたのでしょう。きっと、彼らは牙を剥いて来る。このとき、ユダヤ人に挑戦状を突きつけた強気なパウロと、ルステラ、ピリピ、テサロニケで彼らの襲撃から逃げ回っていた弱気なパウロが、同居していたのではないでしょうか。そんなパウロを、主はご存じでした。主、それはイエスさまです。かつて、彼を異邦人の使徒として召し出されたよみがえりのイエスさまが、再びパウロの前に来られました。「わたしがあなたとともにいる」、それはパウロへの、何よりの励ましだったことでしょう。一年半、腰を据えてコリントに留まることが出来たのは、イエスさまにお会いし、その約束と励ましを聞いたからです。この町には、まだたくさんの主の民がいる。彼らにみことばを伝えないでは、ここを去ることは出来ない。コリント教会の人たちも、パウロからその励ましを聞いたのでしょう。アカヤ州に諸集会が誕生(27参照)したのは、彼らの働きがあってのことと思われます。

 ところが、ガリオがアカヤの地方総督に就任しますと、それを好機と見たのか、なりを潜めていたユダヤ人たちが牙を剥き始めます。パウロを拘束し、法廷に訴えて出ました。「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています」(13) これには、今までユダヤ教の陰に隠れていたキリスト教を、その陰から引き出し、キリスト教はローマ公認の宗教ではないと、追い落とす狙いが込められています。珍しく、その訴えはまともでした。しかしガリオは、この訴えを退けます。ユダヤ人はガリオに、「律法」を「ローマ法」と思わせ、告訴状取り上げの義務を生じさせる戦術に出たと思われますが、ガリオはこれを、ユダヤ人の律法と正しく受け止めたのです。「(これが)あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう」(15)と、門前払いしてしまいます。

 腹いせに彼らは、後任の会堂管理者ソステネを法廷傍聴席で打ち叩きました。ソステネもまた教会に関心を寄せていたのでしょうか。「パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちと別れを告げて、シリヤ(アンテオケ)へ向けて出発した。プリスキラとアクラも同行した」(18) 主がともにおられることを感じつつの撤退だったのでしょう。新しい働きを目指して、久しぶりのアンテオケ帰還です。