使徒行伝

50 輝くばかりの信仰を
使徒  17:1−9
イザヤ 53:4−9
T パウロの伝道戦略

 「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこにはユダヤ人会堂があった」(1) パウロとその一行は、不本意でしたが、騒動の原因となったわけですから、長官たちの意向を受け入れ、ピリピを離れました。しかし、本来の目的である伝道旅行を終えたわけではありません。ピリピから進路を更に西に取り、エーゲ海沿岸の帝国道路エグナティ街道を通って、150`ほど離れたテサロニケに向かいました。ルカは一行から離れ、ピリピに留まったようです。アムピポリスとアポロニアも大きな植民都市でしたが、恐らく宿泊地点に過ぎなかったのでしょう。

 テサロニケは、帝国第一の植民都市で、マケドニヤの首都として栄えていました。パウロは、ピリピのときと同じように、他の都市には見向きもせず、首都テサロニケに直行します。その地方第一の町からというのが、パウロの伝道戦略でした。そこに教会が建つなら、その教会が中心となって地域伝道が始まる。効率の良い伝道戦略と言えるでしょう。ところが、現代日本の教会は、地方から都市に人が移動して都市教会が大きくなり、地方教会は衰弱する一方です。アメリカでは、都会の大教会がバスやヘリコプターを用い、周辺教会から信徒の引き抜きをしていると聞きました。全く逆の戦略です。パウロの戦略に倣わなければ……、都市教会の役割(?)を思います。マケドニヤの首都テサロニケ、そこにはユダヤ人も多く集まっており、恐らく、マケドニヤの中心的な会堂がありました。いつもしているように、パウロは会堂に入り、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じました(2)。「3つの安息日」、つまり3週間というこの働きは、テサロニケ到着すぐの様子なのでしょう。ルカはその後の働きについて何も触れていませんが、テサロニケ書の描写を見ますと、教会が出来、自主的に伝道し始めるまで成長しています。かなり長い期間、この町で働いていたようです。

 ピリピでもそうでしたが、このユダヤ人会堂にも、ギリシャ人など多くの異邦人改宗者やシンパが集い、中でも女性たちがたくさんいて、「彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシャ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった」(4)と、ルカは記しています。その人たちがテサロニケ教会の中枢を担うようになったからでしょう。


U テサロニケに教会が

 パウロのメッセージの主要点がまとめられています。「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそキリストなのです』と言った」(3) パウロは、宣教対象の第一にユダヤ人を上げていましたから、旧約聖書(恐らく、イザヤ書が中心)を重点的に用います。メッセージは、苦難のメシアとその復活が中心でした。これは、ユダヤ人会堂で、中間時代から盛り上がっていた、メシア待望論が中心に語られてきたことを物語っています。海外の諸会堂でも、その傾向が強かったのでしょう。テサロニケ会堂に集う異邦人たちも、そんなメッセージに育てられ、メシアについて相当な知識を持ち、そのメシアを待ち望む信仰が育っていたと思われます。ユダヤ人だけでなく、ローマを始め帝国各地では、社会的経済的閉塞感があり、救い(神的意味も込め)が求められていたのではないでしょうか。メシア・キリストには、期待の救い主というニュアンスが込められています。イエスさまは、ユダヤ人世界に罪が溢れていたこと、ギリシャ語の会話体(コイネー)が世界共通語になっていたこと、ローマという世界帝国が生まれていたことなど、いろいろな意味で時が満ちておいでになった方でしたが、その時満ちた中には、異邦人までもがメシア到来を期待する、そんな状況が含まれていたのでしょうか。メシアが新しい王と期待されていた(7)ことも、そのような状況と符合します。

 パウロはそんな人たちに、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそキリストなのです」と証言しました。待ち望む人たちに、「メシアは来た」、イエスさまこそ、その方であると伝えたのです。「説明」「論証」とありますが、これは、旧約聖書に描かれるメシアの苦難と復活についてであり、その通りイエスさまは十字架につけられ、よみがえられたのだと、パウロ自身がお会いしたイエスさまについて証言し、この方こそキリストであるという証言を含んでの説明であり、論証です。パウロがイエスさまを、「新しい王」と紹介したことは疑いありません。

 そのように丁寧に積み重ねられた説明と論証を聞いて、ユダヤ人の幾人かとギリシャ人たち、貴婦人までも、多数イエスさまを信じました。テサロニケ教会の誕生です。


V 輝くばかりの信仰を

 「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した」(5) こうした事態に、「(市場にたむろしている・新共同訳)ならず者をかり集め」たのは、もちろんお金の力でしたが、それは、ユダヤ人たちが普段から彼らと接触していたからでしょう。何かあったら彼らの力を借りる。ユダヤ人がこの町で生き延びて来れたのは、そうした暗部の力に頼っていた……、ことが分かります。彼らがイエスさまの福音に何ら肯定的な反応を示さなかったのは、当然と言うべきでしょう。恐らく、大きな会堂で安息日ごとに繰り広げられる礼拝もメシア待望の信仰も、そして律法や神さまのことさえ、彼らには何ら意味を持たず、ただそれらを、町なかの評判や地位保全、金儲けのためだけに利用していたのではないでしょうか。

 ヤソン、この人のことは、いきなり登場して来ますので、テサロニケだけでなく、使徒行伝が読まれる所どこでも知れ渡っていたと判断し、ルカは紹介を省いたのでしょう。彼の名前が知れ渡っていた。それはきっと、テサロニケ教会がくぐり抜けて来た幾多の苦難と一緒に、でした。ヤソンは自分の家を教会に提供し、何回もの苦難を、自分が盾になって切り抜けて来たと思われますが、それが勲章となって近隣に知られるようになった……、と想像が広がります。発端は、ここです。「(ユダヤ人たちはヤソンの家を捜索しますがパウロとシラスが)見つからないので、ヤソンと(そこにいた)兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。『世界中を騒がせて来た者たちが、ここにはいり込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみなイエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。』こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。彼らはヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した」(6-9) 誕生したばかりの教会で、ヤソンは使徒たちをかばい通しました。彼はユダヤ人だったようですが、だからでしょうか。同じ会堂で礼拝をともにしていた者たちは、なぜあんな者たちに加担するのかとヤソンを責め立て、それが激しい憎しみに変わってきています。それでも彼は、使徒たちから教えられたイエスさまの福音を守り抜いたのです。パウロたちをかばい通したのは、彼の信仰によるのでしょう。そこには信仰を守り通した他の兄弟たちもいましたが、ここにヤソンの名前だけが記されたのは、彼がパウロたちの意志を継いで、テサロニケ教会のリーダーになったからなのでしょう。ならず者を手先に使ったユダヤ人たちの訴えを一方的に取り上げた役人たち、そのいい加減さは、ピリピより一層ひどかったようです。彼らはヤソンたちから保証金を取って、ようやくパウロたちを釈放しました。ピリピのときもそうでしたが、そのような人たちの呆れるようなモラルの中で、キリスト者の信仰が光り輝いています。混乱がひどくなる一方の現代に、私たちも、そんなイエスさまを信じる信仰を輝かせたいではありませんか。