使徒行伝

48 心癒す賛美を
使徒 16:16−25
詩篇 147:1−6
T この人たちは!

 さて、ピリピでの、もうひとつの出来事です。これは16章の終わりまでで、とても長いですから、二回に分けて見ていきましょう。前半は16-25節からです。「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです』と叫び続けた」(16-17)と始まりますが、ルデヤの家に宿泊した一行は、ピリピでの働き場を、川岸にあるユダヤ教の集会場所から変えようとはせず、そこに通い続けています。何日目だったのでしょうか。「占いの霊につかれた若い女奴隷」に出会いました。「占いの霊」を、ルカはピュトンと呼んでいます。これはデルフィ(古代ギリシャの都市国家)の託宣神で、ギリシャ神話に出てくるアポロン(予言に秀でていた)が化身した竜を指すのですが、当時は「悪霊」と受け止められていました。その霊に憑かれた彼女の託宣は、よほど的中していたのでしょう。彼女の所有者たちは、予言の謝礼を当てにした金儲けを続けていたようです。彼らは「主人たち」と複数になっていますから、もしかしたら、デルフィのアポロン神殿で巫女をしていたこの女性を、神殿売春に関わった何人かの男たちが買い取ったのかも知れないと想像します。彼女が「若い女奴隷」であることも、そんな想像を裏付けてくれるようです。

 彼女はパウロたち一行を見て、この人たちは神さまからの使者であると直感しました。彼女に憑いた悪霊が、パウロたちを(その背後におられるイエスさまを)恐れた、ということなのでしょう。彼女が幾日も幾日も「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けたのは、パウロたち一行がこの町から退散することを願っての挑戦でした。これは悪霊の挑戦でしたが、その洞察は正確(「救いの道」は異教的な表現で、その意味では福音とは違いますが)で、ある意味、イエスさまへの告白と言えるでしょう。それは、叫び続けた彼女の魂に触れることだったのかも知れません。或る注解者は、彼女は、ピリピにおけるルデヤと牢獄の看守に続く、第三の教会メンバーになったのでは、と推察しています。ともあれ、そんなことが幾日も続くので、パウロはうるさくて困り果て、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じました。すると悪霊は「即座に出て行った」(18)とあります。同じようなことがかつてイエスさまにもありました(ルカ8:26-39)が、パウロはイエスさま同様、福音の証人として、悪霊の証言を望まなかったということなのでしょう。悪霊を追い出す「力」=神さまの力だけが、ルデヤや看守の心に働きかけました。宣教には、その力だけが行使されなければならないのです。


U ……そして悪霊までも

 彼女の主人たちは、彼女から霊が出て行ったのを見ました。その現場に居合わせたのでしょうか。もしかしたら、パウロたちにつきまとっている間、彼女は託宣という自分の仕事を放棄していたのかも知れません。すると主人たちは、彼女の様子がおかしいのは、パウロたちの故であると気がつきます。また、彼女が発した悪霊の叫びは、イエスさまへの挑戦というよりむしろ、余裕のないせっぱ詰まった悲鳴に聞こえて来ます。町の人たちも、そんなドラマの観客でした。きっと、彼らの意見もさまざまに割れたことでしょう。ともあれ、主人たちは、金儲けの手段を失ったことに腹を立て、パウロとシラスを拘束し、役人たちのところに引いて行きました。そして、裁判権を持つ長官たち(二人)に彼らを告訴します。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております」(20-21) ユダヤ人たちは、この町でいかにも評判が悪かったのでしょう。頑固な律法主義者たちは、町の人たちといざこざが絶えなかったと思われます。だから彼らは、川岸にしか礼拝場所を見出すことが出来なかった。あったとしても小さな会堂、いや、それさえ建てられなかったかも知れません。告発者たちは、パウロたちを、評判の悪いユダヤ人と同一視しました。確かにパウロたちはユダヤ人ですが、一行の中にはルカもいましたし、なにより、占いの女奴隷はパウロたちを、「いと高き神のしもべ」と言ったのです。訴えがまるっきり見当違いであることは、彼らにも分かっていたと思うのですが、しかし、そんな細かなことは無視し、手っ取り早く彼らを悪者にしたかったのではないか。彼らがユダヤ人であるなら、「町をかき乱し、悪い風習を宣伝している」と訴えたとしても、その告発は取り上げられるだろう。ユダヤ人とは、そうした者たちなのだから……。

 確かにユダヤ人も問題でしたが、町の人たちもいい加減で、一部は告発者たちに同調しました。裁判官たる長官たちもその仲間になって……。活気溢れるピリピという町の、一面が見えて来るではありませんか。役人も市民も、悪霊までも……。パウロがトロアスで見たマケドニヤ人の幻、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(9)という悲痛な叫びは、いい加減なモラルで閉塞感に満ちた町の実情に悩む、ピリピ人の良心だったのかも知れません。現代においても……!


V 心癒す賛美を

 パウロとシラスの投獄は、そんなピリピの、現代にも似た裏面社会の実状を、如実に現わしたものと言えるでしょうか。「群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた」(23-24) 裁判が行われた形跡は全くなく、もしかしたら、告訴した者たちから長官たちに、賄賂が差し出されたのかも知れません。ことの顛末を見ますと、長官たちは、翌朝早くパウロとシラスを牢から引き出し、そのまま釈放しようとしています(35)。彼らは初めから、裁判など行なうつもりはなかったようです。投獄したことも、何度もむち打ったことも、賄賂を受け取る(取った?)ためのパフォーマンスに過ぎなかったのではないか。きっと、告訴した人たちや賛成した人たちの見ている中で、そんな見え見えのパフォーマンスが行われたのではないか、とさえ思われます。正義が腐敗した社会の、典型的事例と言えるでしょう。

 しかし看守は、まるで絵に描いたような、ローマ軍人そのものだったのでしょうか。「厳重に」という命令に従って、パウロとシラスを徹底した管理下に置きました。それが「奥の牢」であり、「足かせ」でした。奥の牢は恐らく、重大犯用の隔離牢(地下牢?)であり、足かせは、鎖の一方の端を壁に固定し、もう一方の端がつけられた2片の木の枠で足を挟んだ、まるで身動きが出来ないものです。こう見てきますと、この忠実な看守は、いい加減なピリピ社会にあって、正義を守ろうとする貴重な存在とさえ映ってきます。そんな看守だったから、イエスさまを信じて、ルデヤとともに、ピリピ教会を支える人とされたのではないでしょうか。主が彼の人格を重く見られた結果では、と想像させられます。

 そんな彼も、囚人を奥の牢に入れ、足かせをかけますと、安心して牢の扉を閉じ、獄舎の外にあったと思われる詰め所に引き上げていきました。その夜のことです。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」(25) むちで打たれた傷の痛みや身動きの出来ない足かせに彼らは、眠ることが出来なかったのでしょう。そんな中で、彼らは神さまに祈り、賛美していました。牢獄も足かせも、彼らの心を拘束することは出来なかったのです。神さまを賛美し、祈る。こんな牢獄でも、今までと何ら変わることはありません。彼らの魂は、神さまの前で自由に羽ばたいていたのです。その歌声は、他の囚人たちの耳にも届きました。こんな中で、神さまへの賛美! それは囚人たちにも、今まで聞いたことがない、優しく穏やかで、すさんだ心を癒すものに聞こえたのではないでしょうか。何と素晴らしい伝道者たちでしょう。