使徒行伝

47 主に建てられて
使徒 16:11−15
詩篇 127:1−5
T ピリピへ

 「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した」(11-12) 一行はマケドニヤの港町サモトラケに上陸しました。そこはもうヨーロッパです。彼ら、つまりイエスさまの福音は、ついにヨーロッパに最初の足跡を刻んだのです。福音の世界的広がりの第一歩と言えましょう。しかし彼らは、そんな感慨にふけることなく、そこから帝国道路を辿り、港湾都市ネアポリスから海岸山地を越え、15`ほど内陸部のピリピへ進んで行きました。サモトラケもネアポリスも、整備されたヘレニズム文化を保有する都市でしたが、パウロはいささかもためらわずそこを素通りし、ピリピに向かいます。一行には、パウロ、シラス、テモテ、そして恐らく、ルカの4人に加え、他にも何人かの道案内役や、小アジヤのクリスチャンたち(20:4参照)も加わっていました。パウロやシラスは分かりませんが、そういった人たちは、何回もマケドニヤに渡航していたと思われます。最初にピリピに焦点を合わせたのは、そんな彼らを交えたトロアスでの合議によったのかも知れません。ローマ市民権を持つパウロも、ローマ人入植によって出来たピリピについては相当知識もあり、興味を示したのでしょう。

 ピリピは、「この地方第一の町で、植民都市」と簡単な紹介がありますが、パウロがピリピを目指した第一の理由が、ここに端的に語られているようです。植民都市(コロニア)とは、ローマ人の入植によって誕生した都市を指しますが、ピリピには二回に渡るローマ人入植があり、ユリア・アウグスタ・コロニアという名で呼ばれるようになっていました。これは、初代皇帝にちなんだローマでも特別な名で、住民にはイタリア権(移住するローマ市民がイタリアで持っていたと同じ権利)が保証されていました。もともとピリピは、マケドニア王国を築き上げたをアレキサンデル大王の父フィリッピにちなんだ名でしたから、ローマはこの都市の重要性を認めていたのでしょう。特に軍事面、商業面における要地として、ローマの退役軍人や通商のためにやって来た外国人が多かったようです。

 外国人の中には、当然のことながら、デアスポラのユダヤ人も多く含まれていました。彼らの会堂だったかどうかは分かりませんが、パウロが捜して行った川岸には「祈り場」があり、改宗者やシンパの外国人もその群れに加わっていたようです。「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まった女たちに話した」(13)とあります。


U 主に忠実な女性ルデヤ

 そこで聡明な女性ルデヤと出会います。「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください』と言って頼み、強いてそうさせた」(14-15)

初期教会の女性たちが果たした役割には非常に大きなものがありますが、ルカの証言(第一、第二文書とも)には、そのことについて、他の福音書に優って多く取り上げられています。たとえば、イエスさまがいろいろなところを巡回されていたとき、そのお働きを陰で支えた女性たち(ルカ8:1-)、エルサレムに行かれたとき、イエスさまがお泊まりになったベタニヤのマルタとマリヤの姉妹(同10:38-)、マルコの母マリヤの家の屋上の間が教会誕生の場になった(使徒2:1、12:12-)であろうことなど。これらはルカだけが取り上げているのですが、ある注解者は、ルカを「女性の友」と呼んでいるほどです。男性中心の社会で、女性の記事を大切にしているのは、ルカ文書の大きな特徴と言えましょう。そんな縁の下の力持ち・女性たちの働きは現代まで続き、伝道者が新しい地で宣教を開始する時、そこには必ずと言っていいほど女性の姿が見えます。ルカは、各地の教会で、そんな女性たちの働きをじっと観察していたのでしょうか。

 ピリピにおけるルデヤの記事も、ルカ文書の特徴の一つに数えられます。テアテラは小アジヤ西部(ルデヤ地方)にある大きな都市で、紫布の染色と、その組合で良く知られたところでした。彼女は、出身地の名で呼ばれていたのかも知れません。黙示録に出て来る7つの教会に、テアテラ教会の名前があります。後に教会が建てられたようですが、もしかすると、ルデヤが関わったのかも知れないと想像してしまいます。ピリピに来ていたのは、もちろん販路拡大のためだったのでしょう。彼女はピリピに大きな家(店?)を構えていましたから、一時的な滞在ではなく、じっくり腰を落ち着けて、少なくともマケドニヤ全域を視野に商売をしていたようです。小アジヤ西部の人たちの視野には、エーゲ海の向こう、マケドニヤやギリシャが入っていましたし、ヨーロッパ人の目には、小アジヤ各地の様子が映っていた。ルデヤはそんな小アジヤとヨーロッパを結ぶ架け橋であったと、そんな彼女は教会拡大の要石になると、ルカの思いや願いが浮かんで来るようです。


V 主に建てられて

 「神を敬う」女性ルデヤ、彼女は恐らく、ユダヤ教シンパと思われます。ルカは、パウロの話を聞いた人たちを「女たち」と記していますから、この集会に加わって来る人たちの大半が、ルデヤのような外国人女性のユダヤ教シンパだったのでしょう。まだ新しい群れだったのかも知れません。いままでつきまとっていた厄介なユダヤ人問題が、ここでは発生していないのです。だからでしょうか。目を輝かせ聞き入っている彼女たちに、パウロは力を込めてイエスさまの福音を語りました。

 ルカは、その中のひとり、「ルデヤの心を主が開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」と記します。それは、ルカが、パウロのメッセージを聞き、主から感動を与えられた彼女の様子をすぐ近くで見ていたことと、また、彼女から直接聞いたであろう証言とを合わせての記述でした。そして、「彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください』と言って頼み、強いてそうさせた」(15)と、ルデヤの家がピリピでの教会になっていった経過も、ルカ自身の見聞きした証言であると言えましょう。

 ところで、特に覚えたいのですが、ルカはこれらの記事を、10年少し経ってから第二文書にまとめました。その頃、パウロはピリピ書を書き送っています。その間、教会はギリシャからローマにまで拡大しており、小アジヤの教会事情も変わって来ていると思われますが、恐らく、小アジヤとヨーロッパの架け橋としてのルデヤの様子も耳に入っていたことでしょう。いくつもの教会が建てられては消滅し、異邦人教会にも様々な問題が山積していたのです。しかしルカは、それでもなお、この記事をルデヤ中心にまとめました。これはルデヤに働きかけた主のわざなのだと、何度も反芻した中での、確信にもとづいた記述だったと思われます。極めて短いルデヤの記事ですが、しかし、ここに込められたルカのメッセージは、現代の私たちもよくよく覚えておかなければならないと思うのです。現代教会の浮き沈みは非常に激しいものがありますが、その多くは、社会変動に影響されているようです。しかし、原則から言うなら、主が働かれて建てられた教会であるなら、社会変動などで左右されるものではない。会堂や教会組織の保有或いは喪失は、別問題でしょう。何らかの理由で牧師を失ってしまった教会が多いこの頃ですが、もし主ご自身が牧されているなら、問題は縮小されてくるのではないか。主に建てられ、主に牧されているかどうか。私自身の信仰も、そのことを、再度、問い直していかなくてはと思わされるのです。