使徒行伝

45 それぞれの世界伝道が
使徒 15:30−41
イザヤ 9:2−5
T 喜びの中で

 「さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ」(30-31) 一行とは、パウロたちアンテオケが送り出した使節団と、エルサレム教会会議の決議文を託され、異邦人教会への使者となったユダとシラスです。シラスは、間もなくパウロの伝道旅行(第二次伝道旅行から)に同行し、後にパウロ文書の筆記者になった人ですから、この時すでに、異邦人伝道に極めて高い関心を寄せていたのでしょう。ユダもシラスも、異邦人に深い関心を寄せる姿勢が評価され、この使者に選ばれたものと思われます。次に「ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた」(32)とありますが、これはルカの挿入文ですので、31節の「その励ましによって喜んだ」を補足するための、付記と考えられます。そうしますと、アンテオケ教会の人たちは、「使徒通達の手紙」を解説した使者・ユダとシラスの「その詳しい内容」に触れて、喜んだと聞こえてきます。ルカは、ヤコブ個人の意見よりも、エルサレム教会の、教会としての意向に重点を置いているのでしょう。教会こそ重んじられなければならないと、信仰者の立ち位置を明確にすることで、異邦人教会の更なるスタートと広がりに心を配っているようです。

 「彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った」(33) 新改訳聖書では欠落している34節の、「しかし、シラスはそこにとどまることに決めた」は後世の加筆であろうと、大方の翻訳聖書は省いています。シラスはユダといっしょに一旦エルサレムに帰り、使者の義務である報告をした後、改めて単身アンテオケに出向き、パウロの伝道旅行に志願した(40節参照)と思われます。「しばらく滞在して」とありますから、その間にアンテオケ教会の人たち、特にパウロと意気投合したのではないでしょうか。「兄弟たちの平安のあいさつに送られて」と、わざわざそんな細かい描写を入れていることも、シラスがアンテオケ教会に傾倒していった理由の一つに上げられるかも知れません。もしかしたらそれは、かつてエルサレム教会にも生き生きと息づいていた、しかし、今では失われてしまったものと推察するのです……。どうもルカは、ヤコブに好印象を抱いていなかったようです。


U 生き生きと

 「パウロとバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた」(35) これは、パウロとバルナバがアンテオケ教会でどう過ごしていたかを語る、唯一の証言です。シンプルで余分な修飾語が一切ない文章ですので、手がかりのために、違う訳文を紹介しましょう。新共同訳は「パウロとバルナバはアンテオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた」としており、岩波訳は新共同訳から「教え」を削除した訳となっています。いづれにしても、この短く切れ端に近い文章から想像するだけですが、原典は新改訳に近く、ルカにしては珍しく歯切れの悪い文章です。そこで岩波訳は、思い切ってパウロとバルナバの働きを宣教一本に絞ったのでしょう。しかし、「教え」が彼らのアンテオケ教会での主要な働きだったことは否めません。教会にはパウロとバルナバの他にもたくさんの「伝道者・教師」がいました。13:1を見ると「バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウルなどという預言者や教師がいた」となっており、現代教会に比べることは出来ませんが、まだ名前を挙げることが出来るほどの人数です。それがここでは、その名前を列挙出来ないほど、教師数が増えている。預言者にしても、11:27-28でアンテオケにやって来たアガポの影響があったのでしょうか。預言者群と言えるほどの人たちが、そのグループに入っている。訓練を受けている人たちも含めているのでしょうね。この教師と預言者の一群は、もしかしたら、実際にパウロやバルナバの世界伝道をサポートしたのかも知れないと想像します。こんな状況がアンテオケ教会に芽生えたのはいつ頃のことなのか、何も言及されていませんが、少なくともエルサレム教会会議の使徒通達があって後、大きなうねりになったのではと思われます。

 こういった教会の非常に活発な様子は、使徒通達を聞いて「喜んだ」(31)ことと無関係ではないでしょう。その喜びは、使徒通達の主眼である「律法からの自由」によるものではなく、ヤコブに派遣された「ある人たち」がしばらくの間教えていた律法中心の信仰から、イエスさまの福音を信じる信仰だけに絞られ、それだけで十分であるということで、教会が生き生きと息づいて来たのであろうと想像するのです。もしかしたら、一番「喜んだ」のはルカ自身だったのかも知れません。


V それぞれの世界伝道が

 アンテオケ教会のそういった状況を見定めてのことでしょうか。パウロがバルナバに提案しました。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」(36) エルサレム教会から派遣された使者たち・ユダとシラスも、アンテオケに来る途中のシリヤやキリキヤ地方の異邦人教会に立ち寄るのが精一杯でしたから、最終目的地アンテオケ以西の異邦人教会に、使徒通達の情報は何も伝えられていませんでした。その情報を伝えたいという思いもあったのでしょう。もしかしたら、アンテオケ教会に入り込んで来たパリサイ派クリスチャンたちが荒らし回っているかも知れないと、パウロとしては気にかかるところです。そこを去る時に、イエスさまの教会として立ちいくよう、長老たちを選び、自分たちで礼拝を守ることが出来るように細やかな配慮(14:22-23)をしてきましたが、果たしてその一つ一つが主の教会として機能しているだろうか。それも確かめたいところではなかったでしょうか。そして、何よりも彼らは、もっと先々まで主の福音を伝えたいと願っていたのでしょう。デアスポラの彼らは、世界の広がりを知っていました。

 「ところが、バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロはパンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した」(37-40) ルカは、伝道者たちのこんな争いも、隠そうとはしていません。ルカは、パウロの主張に、「だれでも、手を鋤きにつけてからうしろを見る者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)という、イエスさまの教えを感じていたのでしょうか。同じキプロス出身で、いとこ(甥?)という人間の基準を主張したバルナバは、この後、使徒行伝の舞台から姿を消します。マルコのことは、恐らく、この第二文書を執筆している(AD61-2年頃、ローマで)ときに、ルカの耳に入っていました。後にパウロとともに働き、重んじられた人物(コロサイ4:10参照)として、何回もの伏線(12:25、13:4、13:13)とともに、今回の記述になったのでしょう。

 パウロが求めたバルナバに代わる同行者に、シラスが手を挙げました。使者や証人は二人というのが昔からの原則でしたし、以前の経験からも、必要と判断したと思われます。シラスはパウロ同様ローマ市民でしたから、そのギリシャ語力とともに、絶好の同伴者でした。彼らは主の恵みにゆだねられて出発しました。「そして、(二人は)シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた」(41) 祈りと断食と(13:3)送り手の中心に、教師と預言者たちがいたことは言うまでもありません。彼らもそれぞれ故郷を持っていましたから、きっと、それぞれの世界伝道が展開されたのではないでしょうか。