使徒行伝

44 新しい時代が
使徒 15:13−29
イザヤ 66:18−23
T ヤコブの提案

 エルサレム教会会議ですが、これまでに、アンテオケ教会の使節団と迎えたエルサレム教会パリサイ派出身クリスチャンたちとの激しい論争、続く使徒たちと長老たちの論争、それに、ペテロの演説と、バルナバとパウロの演説が行われたことを見てきました。残るは、この会議の方向を決定づける、長老ヤコブの演説と、それに基づく教会の決議です。今朝はこの部分を取り上げます。

 「兄弟たち。私の言うことを聞いてください」(13)と、ヤコブの演説が始まります。冒頭から彼は、自分がこの会議を締めくくらなければ収まらないという、教会内における自分の権威に、満々たる自信を示しているようです。何がそんなにまで彼の自信になっているのでしょうか。

 ペテロの演説が、彼の発言のきっかけになりました。「神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります」(14-15) シメオンはペテロのもともとのユダヤ人名で、ありふれた名前ですが、普通はギリシャ化された「シモン」が用いられていました。それなのにヤコブは、ギリシャ語化されない古い形の「シメオン」で呼びかけたのです。彼の中にある、ユダヤ人の誇りが感じられるではありませんか。それとも、古いユダヤ人感覚を引きずっている、パリサイ派クリスチャンたちの意識に合わせたのかも知れません。いづれにしてもヤコブは、エルサレム教会内に増え始めた律法主義者たちに、十分すぎるほど気を配った言い方をしています。それと同じ意識からでしょうか。彼の演説は、ペテロの演説には反応していますが、続くパウロとバルナバの証言を、全く聞かなかったように無視しているのです。きっと、異邦人が教会に入り込んで来るのは仕方がない、ユダヤ教にも改宗者がいるのだから、と受け止めたのでしょう。

 「預言者たちもこう書いている」と、彼はアモスとイザヤのことばを引用します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる」(16-18、アモス9:11-12、イザヤ45:21) 前半のダビデの幕屋についての言及は、新しい神さまの民の土台はイスラエルであることを示すためであり、イスラエルこそヤコブの主題なのだという、彼の信条が浮かび上がって来るようです。異邦人の選びは、あくまでも追加だったのでしょうか。


U 追加なのか

 もっとも、「わたしの名で呼ばれる異邦人」は、アモス書でも「わたしの名がつけられたすべての国々」となっていて、異邦人が神さまの民として招かれることは神さまの視野に入っていたと、ユダヤ教神学も認めていたようです。ですから、異邦人の救いが「追加」というのは、あくまでも、当時のパリサイ派クリスチャンの現世的思惑によると言えそうです。異邦人の救いは、追加ではなく、神さまの初めからのご計画であるという、預言者のメッセージが明確になるよう語られたのは、この箇所の引用が、ギリシャ語訳だったからです。そこには、ルカの手が加えられたと考えられます。ヤコブが用いた聖書は、恐らく、ヘブル語原典か、タルムッド(ユダヤ教教師たちの語録集)であったろうという推測もあります。ルカは、きっと、そのまま掲載することで後世の判断の妨げにならないよう意図し、ヤコブの演説そのものには手を加えず、しかし、この引用聖句から、異邦人読者が正しく受け止めることが出来るよう願った、と想像するのです。

 ですから、ヤコブの演説の締めくくりの19-21節は、これが彼の中心主題と言える部分ですが、そこには、引用聖句とは全く関係のない提案がされます。「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」(19) 一応、ここには、ペテロやパウロたちが要求した、「異邦人クリスチャンに律法からの自由を」が提案されているようです。しかし、続く20-21節には、「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです」とあり、いろいろと解釈上むつかしい問題はありますが、単純に読みますと、ユダヤ人が改宗していないユダヤ教シンパに守るべき律法の最小限の要求をした、その要求がここに並べられていると言えそうです。これらの禁止事項は、恐らく、彼らが異邦人と共に食事の席に連なることを想定しているのでしょう。そこには、異邦人世界に共通の、異教の神々への供物とか祭儀といった、宗教行為がごく自然に入り込んでいましたから……。


V 新しい時代が

 「その最小限の要求は、異邦人でクリスチャンになった人たちにも、守られなければならない」と、これがヤコブの判断でした。これらを守るならば、ノン・クリスチャンとの食事の席に連なっても良い。しかしこの規定は、異邦人クリスチャンに、律法からの自由を約束するのか、それとも、律法に拘束するのか、はなはだ曖昧と言っていいのではないでしょうか。実際には、当初これらを守っていた異邦人教会も、キリスト教はユダヤ教とは違うものと次第にはっきりして来て、異邦人クリスチャンの数が多くなってくるにつれ、これらを守ることが難しくなって来たようです。西方写本と言われる後代の写本グループは、「絞め殺した物」をテキストから省くことで、この規定を一種の倫理規定に変えてしまいました。「絞め殺した物を避ける」とは、頸動脈を切るユダヤ的屠殺を取り入れることであり、つまり、ユダヤ教徒に準じる生活を意味しますが、これを省くことで、「異教的祭儀には組みしない」という、クリスチャンにとってごく当然な、信仰の守り方(ある意味で「規定」が全く意識されない)が容認されたと言えるでしょう。当然、ユダヤ教とは距離を置いた、異邦人クリスチャンの世界が形成されていきます。ヤコブにその意図があったかどうかは不明ですが、ルカやパウロがヤコブの提案に全く異を唱えていないことから、彼らが最初からこれを倫理規定と受け止めたであろう可能性は残ります。

 ヤコブの提案は、これに含まれる様々な問題を処理することは私の手に余りますが、不思議なことに、エルサレム教会は改めて全信徒(パリサイ派の人たちは欠席?)を招集し、この提案を受け入れる決議をします。「そこで使徒たちと長老たち、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送ることを決議した」(22) 「使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに,あいさつをいたします。私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていなのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一致しました。このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のためにいのちを投げ出した人たちです。こうゆうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていればそれで結構です。以上」(23-29) エルサレム教会誕生の初めから、「聖霊と教会」は二つの権威でした。今回もこの決議の妥当性を裏付けるものとして、その二つが持ち出され、それによってこの通達は変更を許さない義務になる、と疑わなかったのでしょう。しかし、その権威もここまでです。ここからは異邦人教会中心の、新しい時代が始まるのだという、ルカのメッセージが聞こえて来るようです。