使徒行伝

41 神さまを見つめて
使徒 14:19−28
 エレミヤ 32:17−19
T 立ち上がって

 ルステラで群衆が使徒たちにいけにえをささげるという珍事は、パウロのやさしい、かみ砕いた説教によって取り止めとなり、彼らがギリシャの神々に祭り上げられた大騒動は、一段落しました(18)。それが契機となったのか、多くの人たちがイエスさまを信じる信仰に導かれ、ルステラにも教会が誕生(16:1-5参照)しました。神さまのお働きがあってのことでしょう。

 ルステラでの働きについて何も述べられていませんが、しばらくは続いていたと思われます。
 しかし、そんなことが聞こえたのでしょうか。それとも、反発するユダヤ人たちが、パウロたちの動向をさぐっていたのかも知れません。「アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した」(19) イコニオムでも触れたことですが、ピシデヤ・アンテオケでの迫害は、「町から彼らを追い出す」というに止まりました。それがイコニオムでは、「石打ちの刑にしようとした」のに、事前にそれがパウロたちに知られてしまい、彼らが町から脱出することで計画は失敗に終わりました。その失敗を挽回しようとでも思ったのでしょうか。ルステラでは、ついにその計画が実行されてしまいます。この一連の迫害は、回を重ねる毎にエスカレートしていて、そのように記すことでルカは、迫害の時代を迎えようとする異邦人教会の人たちに、「信仰は戦いなのだ」と理解欲しいと願っているのでしょう。

 その戦いぶりをまざまざと見せたのが、石打ちの刑の標的にされたパウロの様子です。パウロが死んだと思ったユダヤ人たちは、彼を町の外に引きずり出し、路上か草むらに放置したまま意気揚々と引き揚げてしまいますが、弟子たち(恐らく、ルステラでイエスさまを信じた何人かの人たち)が、心配のあまり、おろおろしながらパウロを取り囲んでいますと、「彼は立ち上がって町にはいって行った」(20) のです。何事もなかったかのように……。「石打ち」は律法に基づいた刑事罰ですから、こぶし大の石を頭(こめかみ)めがけて力まかせにぶつけます。これで何事もなかったはずがない。事実、ぶつけた人たちが「パウロは死んだ」と思ったのですから、少なくとも、気絶はしていたのでしょう。いや、本当に死んだのかも知れません。「彼の生還は奇跡である」と注解した人がいますが、しかし、奇跡というのなら、彼を死から生へと引き戻した神さまの力こそ、認めてしかるべきではないでしょうか。「立ち上がって」とは、パウロが足なえに向かって叫んだことばです。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(10)と。なぜルカは「歩きなさい」(3:6)ではなく、「立ちなさい」としたのか。それが、パウロが死の中から「立ち上がった」ことと関係があるとしたら、異邦人教会へのメッセージに込めてルカが見つめたのは、そこに働かれた神さまの恵み、あわれみではなかったかと思うのです。


U この信仰に

 それにしても、立ち上がったパウロが再びルステラの町に入って行ったとは、何と驚くべき勇気でしょう。しかも、その町で一晩過ごしているのです。「その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった」(20) なぜそんな無謀なことを?と不思議ですが、同時に、ルカがなぜ「翌日」という時の特定にこだわったのか、そのことにも興味を引かれます。ルカ文書では、時の特定ということはめったにないのですが、ここでは、なくてもいいと思われる「翌日」を加えています。「翌日」を加えることでルカは、ルステラの一夜でパウロが果たした「仕事」を暗示しているのでしょうか。

 おそらく、ルステラのクリスチャンたちは、自分たちの町で「使徒」が殺されたことに、相当なショックを受けていたでしょう。殺人者たちはユダヤ教伝道者であり、彼らが尊敬していた人たちでしたから、そのショックは、イエスさまを信じる信仰の否定につながりかねないほど強烈でした。そのショックを解消しておかなければならない。パウロの「仕事」は、まさにその一点に絞られていました。彼に襲いかかった危険はわずか数時間前のことでしたから、彼に手を伸ばしたユダヤ人たちはまだその町におり、危険が去ったわけではありません。その危険を無視して町に入った。それだけでも、パウロは生きているというメッセージになるでしょう。それが、クリスチャンたちと顔を合わせ、祈りをともにし、ことばを交わしながら、ゆったりとした時間を過ごすことが出来たら、なおのこと、どんなにか新しい弟子たちの慰めになったことでしょう。「翌日」という表現は、わずかではありますが、そんなゆったりした時間がパウロと弟子たちとの間にあった、と思わせてくれます。その間にパウロは、彼に主の守りがあったこと、そして、主を信じる人たちには必ず主の守りがあるのだという、励ましのエールを伝えました。

 翌日デルベに向かった使徒たちは、「その町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返し」(21)ました。ピシデヤのアンテオケを追い出された時、ローマの公道を東に向かったのは、陸路を通って母教会・アンテオケに帰るためでしたが、ここでコースを変更し、迫害の町ルステラやイコニオム、アンテオケに戻ったのも、おそらく、先に述べたことと同じ理由からでしょう。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」(22-23) こうしたパウロたちの教会への心遣いを、ルカが受け継ぎ、それが彼のこのメッセージになりました。これは、広がりつつある異邦人教会、そして、現代の私たち信仰者にとって、弟子としての基本的立ち方を構築するものと言えるのではないでしょうか。


V 神さまを見つめて

 その時代、異邦人教会に「信仰は戦いであると理解して欲しい」と願ったルカは、パウロの「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」という信仰を引き継いだと言えます。その苦しみはイエスさまに始まり、すべての信仰者が通らねばならない道筋となりました。しかし、「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」(ヘブル書2:18)とあります。主の恵みと助けを頂きながら切り抜けていく。それが信仰の戦いでした。パウロだけでなく、きっとルカ自身も、何度もそんな戦いをくぐり抜けて来たのでしょう。現代の私たちは、「信仰の自由」という近代国家の法的保証の中で、ともすればその戦いを忘れがちですが、イエスさまを信じることが他の人との摩擦を生じさせ、時にはそれが憎しみに変わることも知らなければなりません。何事にもスマートな近代の人間関係においても、その摩擦は失われてはいないのです。ただし、この世に埋没していなければ……、ですが。当時の弟子たちの生き方が、神さまの御国という終末を見据えた、信仰の戦いだったことを覚えたいものです。

 そんな危険がいっぱいの伝道旅行を終えて、彼らはアンテオケに帰って来ました。AD46年頃、1年弱の期間だったと思われますが、極めて困難な長い旅行でした。

 「ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。こうして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした」(24-28) シリヤのアンテオケ教会、そこにはバルナバとパウロを送り出してから、ずっと祈って来た人たちがいました。人々は大急ぎで駆けつけて来ました。そして、その報告を聞いて心踊った人たちの、その中にルカもいたのではないかと思うのです。その報告に心動かされたルカは、やがて第二回伝道旅行に加わることになります。神さまをあなどり、救い主イエスさまを否定してやまないこの現代に、神さまを見つめるこの戦いを繰り広げていきたいではありませんか。