使徒行伝

40 恵みの神さまを
使徒 14:8−18
詩篇  62:5−8
T 自分の足で

 第一回伝道旅行、ユダヤ人からいのちを狙われてイコニオムを脱出した後、舞台はルカオニヤ地方南部のルステラに移ります。今朝のテキストは、そのルステラでの出来事だけに触れたものです。冒頭でデルベへの逃避を上げながら(6)、その町の名は、ルステラ脱出後、「デルベに向かった。彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子とした」(20-21)としか出て来ません。デルベにも教会が誕生していた(16:1-5)ようですので、このルステラとデルベの記事のアンバランスはいかにも不自然ですが、パウロの紀行文はもともと短い簡潔なもので、デルベの記事をその紀行文そのものと考えますと、ルステラでの出来事を記した今朝のテキストは、別の資料からルカが挿入したもの、と見ていいのではないでしょうか。何のために? そのことを視野に入れながら、見ていきたいと思います。

 このテキストには、三つのことが繋ぎ合わされています。まずその第一、生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことのない人のいやしの物語(8-10)です。この人は、町の門の前(外)(13)にあったゼウス神殿の入り口付近に座って、物乞いをしていたのではと推測されます。「生まれつき足が悪かった」とは、町の人たちの証言なのでしょう。彼がその場所に「すわっていた」(8)のは、何人もの人たちが彼を毎日そこに運んでいたからではないでしょうか。町の人たちはいつも彼をそこで見かけ、その素性さえも良く知っていました。「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」(9-10) ルステラに来たパウロは、神殿前の広場にたくさんの人たちがいるのを見て、話し始めました。どんな内容だったのか、残念ながら分かりません。しかし、大勢の人が素通りする中で、歩けないその人は、じっとパウロの話を聞いていました。彼がその話を完全に理解出来たとは思われませんが、「神さまが異邦人に救いをもたらすために使者を遣わした。それが私たちである」(13:47参照)と聞いて、その救いを熱望したのであろうと想像します。それは、不幸な境遇にある者たちの、直感的洞察だったのではないでしょうか。

 パウロが彼に「いやされる信仰がある」と見たのは、そんな彼の、救いへの熱望だったのではと思われます。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」、そして奇跡が起こりました。「飛び上がって、歩き出した」とは、医者ルカの目が加わった証言であることに注目しなければなりません。


U 息づいている神話の世界で

 ところが、第一の記事はそこで途切れます。この足なえの男がその後どうなったのか、何も記されていません。ルカの関心が、神さまが行なったことなのに、その奇跡や、その男性に向いていないとお分かり頂けるでしょう。記事は次の出来事に移ります。

 「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ』と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした」(11-15)

 ゼウスもヘルメスもギリシャ神話の世界のことです。ゼウスはギリシャ神話の最高神で、その神殿は各地に建てられていました。ヘルメスはゼウスの末子で、神々の使者と呼ばれています。そんな神話の世界が、ローマの時代になっても、各地で生き生きと息づいているのです。アテネでも、神々の像が町のいたるところにありました。きっと、その神々への信仰は、小アジヤのような田舎になるほど、強かったのではないでしょうか。パウロの行なった奇跡を見た人たちは、ルカオニヤ語でその驚きを言い合いました。ギリシャ本土を除いたヘレニズム世界のほとんどの地域で、人々は二つの言語・土地固有のことばとギリシャ語を用いていましたから、彼らがルカオニヤ語で話していたのは、特別なことではありません。むしろそれが、彼らの日常の姿でした。パレスチナのユダヤ人があまりギリシャ語を使用しなかったのは、ヘレニズム文化に馴染もうとしない、彼らの国民性によると思われます。その時代、ユダヤ人のほうが特殊なのです。しかし、パウロやバルナバは、もちろん異邦人のルカも、そうしたヘレニズム文化の中で生きて来た人たちでしたから、そんな土地のことばを聞いても、それほど違和感はなかったでしょう。ただ、分からなかったのは仕方がありません。

 ルステラの町の人たちが、ゼウスだ、ヘルメスだと騒いでいても、パウロたちは、しばらく何のことか分からず、その様子をながめているだけでした。ところが、神殿祭司が雄牛を引いて来たり、花飾りを持って来てパウロたちにいけにえをささげようとするに及んで、事態を理解し始めます。きっと町の誰かが、ギリシャ語に通訳してくれたのでしょう。


V 恵みの神さまを

 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込みながら(14)言いました。(恐らく)パウロ二回目の説教(と言っていいでしょう)が始まります。

 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」(15-17)

 これはピシデヤ・アンテオケでの一回目の説教とは全く異なるもので、旧約聖書の救済史はおろか、イエスさまのことについても、何一つ表面に出て来ません。「福音」と言いながら、それらしいことには少しも触れず、ただ、神々の像を拝むという誤った神観念を捨てて、天地を創造されたまことの神さまに向き合うようにと勧めるばかりです。聞きようによっては、「恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださった」などは、彼らの神々への信仰にも通じる宗教心と言えなくもない。しかしルカは、あえてこう表現しながら、偽りの神々は人々の期待には何も応えてはくれない、むしろ、たくさんの恵みを注いでくださるのはまことの神さまであると主張しているのです。シンプルですが、聖書の主張通りです。きっと彼は、その二つを対比させることで、異邦人の目と耳と心とを福音に向けさせようと試みているのでしょう。この後、福音が語られたのかも知れません。しかし、そうであったとしても、それは削除されている。ルカの思いは、ここに述べられていることでだけで十分なのです。

 ルステラでの出来事は、足なえのいやしの記事を除き、これまで見て来た使徒行伝の流れから大きくはみ出しているように見えますが、ルカがここで見つめているのは、ユダヤ人世界ではなく、異邦人社会だということを理解しなくてはなりません。彼は、広がりつつある異邦人教会が向かう、その社会への福音宣教を見ているのです。異邦人社会、それはまさにそんな社会でした。その状況は現代も変わりないでしょう。私たちはしばしば、イエスさまの救いを図表的、神学的に受け止め、こうでなければと固定化してしまいます。しかし、福音は、まことの神さまに目を向けるところから始まり、聖書の記述もそこから始まっているのです。「詳細に見るならば、このメッセージはロマ書1章と同じである」と洞察した注解者がいます。願わくは、それほど消化されたメッセージを語り、聞きたいものです。「自分の足で」とは、いかにも象徴的ではありませんか。